第1回 『君知るや戸塚苑』 南陀楼綾繁
早稲田古書店街のなかほど、浅川書店の隣りにひっそりと、「戸塚苑」という喫茶店があることをご存知だろうか? いまでも入り口に「珈琲 戸塚苑」という表示が残っているのだが、道を歩くヒトは気づかずに通り過ぎていく。いや、地元の古本屋さんに聞いても、いつ閉店したのか覚えていないのだ。
関心が薄いのもムリはない。営業していた頃から、「戸塚苑」は影の薄い喫茶 店だった。大隈通りの喫茶店のように学生向けではなく、かといって、チェーン店のようにコーヒーが安いワケでもない。席数はテーブルが5つほどで、カウンターはなし。メニューはブレンドとアイスコーヒー、紅茶程度。食べ物もトーストしかなかったハズだ。
客はホトンド一人でやって来て、本を読みながらコーヒーを飲む。妙齢(60代だったか?)の女性が一人で切り盛りしていたが、常連と話し込むというコトもなく、店内はいつも静かだった(音楽もかかってなかったと思う)。つまり、とても、そっけない店だったのだ。
ぼくがこの店に通ったのは、大学を出てから大学院を受けたり、出版社のアル バイトをしていた1990年代初頭だった。どこにも所属してない、宙ぶらりんの気分を抱えて、古本屋を端から端まで歩いた。荷物が重くなると、この店で休んだ。買った本の紙包みをほどき、その場で読み出すこともあった。何を読んだっけ……。武田泰淳の『富士』(中公文庫)などのやたらと長い小説を読んでいたような気がする。
その後、いちおう仕事をするようになり、早稲田に来ても駆け足で古本屋を覗くだけで、「戸塚苑」に寄ることはなくなった。寄る気がなければ、風景に溶け込んでしまって眼に入ってこない店構えでもあった。閉まっているというコトに気づいたのは、だいぶ時間が経ってからだった。
でも、いつの間にか閉まっていた店だから、いつの間にか再開していてもおかしくない。ちょっと期待して、いまでも早稲田に来ると、「戸塚苑」の看板を横目で眺めている。
(2003.5.22)
☆著者プロフィール--------------------------------------------------------
南陀楼綾繁(なんだろう・あやしげ)
1967年、出雲市生。1986-90年、早稲田大学第一文学部に在学。
現在、ライ ター・編集者。「sumus」「サンパン」「本のメルマガ」などの同人として、
本 に関するあれこれを書き散らす。
世界初(自称)の古書目録愛好フリーペーパー 「月刊モクローくん通信」を発行中。
問い合わせはメールで。kawakami@honco.net
----------------------------------------------------------------------