










『愛書人 青木実さん』 元国立国会図書館主任司書 稲村徹元
我々の敬愛していた青木実さんは平成九年四月二十日になくなった。明治四十二年四月四日、当時の東京市下谷杉生まれというから、ちょうど八十八歳のご一生であった。
今、“我々の”といったのは、云うまでもなく文芸誌『作文』の同人がたや、歌誌『勁草』の方々と、いずれも故人がながく関与され、かかわりのあった方々を指すべきで、私どもはいずれにも読者の立場でしかないかも知れない。しかし筆者(たち)にすれば、青木さんが、昭和二十五年入館以来、後半生を過ごされた国立国会図書館での、書誌の編さん・資料の収集業務の中でかかわりをもち、指導を受けた者たちが、おしなべて“我々の”と形容せずにはいられない、よき上司、やさしい先輩であった。
けれども、青木さんは単なる図書館員、司書としての、仕事の上だけでの敬愛をうけていたというわけではない。それ以前、それ以上に、<愛書人>・・書痴というなにかあざとい形容や、単に愛書家と呼ぶのも軽い感じなので・・と呼ぶのがふさわしい存在であった。
仕事がらとはいえ古書とのつながりを愛され、古本屋さんに親しみをもち続けた点−昭和五十年の定年退職からは市井人の−顧客として−であろう。本誌の読者だけではない。ひろく全国の“古本屋さん”の方々にも記憶してもらいたい<明治の人、戦前派の本好きな人>であった。
「古書展ですか。古典籍とか、古書業者なんていき粋がっているけど、何も古本で悪いことなんてないのにね。昔、『古本屋』っていう雑誌があったね(昭和二−六年。大阪、荒木伊兵衛書店。四年八月の「内田魯庵追悼」の臨時号が有名)。大連図書館長の柿沼さんはよく手にとって、いい名前だ、と誉めていたよ。タイココショモクって読むそうだが、なにか古書典籍々々と太鼓を叩くみたいだナ」と冷やかしながら、業界長老ご自慢の自店販売目録を見せてくれたことなど思い出す。もっとも我々自身を、なかば自嘲的に<図書館屋>というのも嫌がられた。ほぼ同年代であった、国会図書館の同僚の一人。その生前はつねに鋭い物言いで後進の我々を鍛えた外国文献通の方が退職前后に、半生記を寄せた館内誌を示しながら「なんで“図書館や一代記”なんて云うのかなぁ」と、やや憮然とした口調でつぶやかれたことなど思い出す。この方とは、おたがいに、戦前の多くの<図書館屋>が関心を寄せ、活動の場を得たにちがいない「アジア大陸」という共有の場を回顧する身でありながら、青木さんの全身をつつんでいたのは愛書人の魂であったのではなかったか。下町ッ児を自負していたらしい青木さんには<愛書人>の称号も面映いかも知れないが……。
とはいえ、青木さんのこうした<愛書人魂>を形成したのは、何といっても前半生を過ごした旧満鉄時代、大連図書館員の生活の中でつちかわれたのであろう。昭和五年から同十五年まで−満鉄時代でも、最后の四、五年は大連図書館は離れられたが−という時代は、昭和戦前期のよき時代。日華事変の進行する間でも大陸満州ではまだよき時代を謳歌できて、その中で古本や周辺のいわゆる書物ジャーナリズムも盛況であったらしい。不景気をかこつ時期とはいえ、関東大震災后から円本時代へ、古書展のデパート進出へと続く。『書物展望』『書物春秋』『玉屑』『本』『書誌学』へと続き、そして『日本古書通信』など数多い書物雑誌が記憶に残り、あるいは復刻版に接することによって我々に“よき時代”を回顧させてくれる。その時代は同時に、限定版や趣味的な出版物をも多く生み、その中で幾多の書物随筆書をも残してくれた。青木さんにすれば、「みんな大連に置いてきてしまったけれど、よい雑誌、いい本だったね」と昔をなつかしみ、「それにしても馬鹿高くなったね」と昨今の古書目録を示された。
筆者が、直接に青木さんのやられた仕事にかかわるようになって気付いたことがあった。お仕事柄とはいえ、それが青木さん独特の扱い方なのだが、ほそい針金のように曲がった線を、目指す書名にかけて引く、それらの頁が折りこみをつけて冊子の上部をはみ出させた古書展目録。
そうした十数冊と、何百枚かの探求書カードをメモしたカードとを、青木さんの辞められたあとの一年ほどをつとめられた先輩を経て筆者が引き継いだのも、もう三十年近い昔となろう。その頃は、青木さん個人の独特なやり方と思い、なまじ書物や雑誌類の小口を折るとか、色鉛筆−当世風のソフトペンなどはもってのほかで−の書きこみはタブー視して育った我々には一寸想像つかないが、昔から実用的で、冊子類を手がける時にはよくやられた方法らしい。
ほどなくして、出版物収集の仕事の中で、臨時に資料受け入れの一種として米国から返還された旧内務省検閲時押収の発禁処分図書千余冊を扱った時に思いがけぬ発見をしたのであった。米国側でのマイクロ撮影后のものとはいえ、検閲時の生々しく、検閲官の朱線の入った納本出版物のそこここに、係官が上申の心おぼえに折りこんだらしい、つよい折り目のあとが残ったのを手にした際、はからずも青木さんの癖とばかり思っていた、あの古書目録の折り目のはみ出したのをなつかしく思い出した。
出版の検閲といえば、青木さんはもう数少なくなった、戦時体制化におよんだこの悪夢のようだった“大日本帝国政府システム”の受難者でもあった。「旧植民地での出版検閲事情なんてほとんど知られてないし、体験した方の文献もないから、よく記録してくださいよ」などと厚かましく説いた私の願いにほだされたのか、『作文』誌にも当時の関東州庁や現地警察での扱いが、「満州文芸資料」といったコラムの形でいくつか記録されている。
戦時体制へときびしくなる中で、その『作文』誌もやがては廃刊へとおいこまれるが、そうした被圧迫者の立場にあった青木さんが、仕事での所作とはいえ、往年の検閲者であった旧内務省係官と同じ跡を、必要とする冊子に残したのも興味深い。
国立国会図書館(昭和二十三年創設。終戦直后停止となるまでの旧内務省への納本をひきついだ国立<上野>図書館本を所蔵。)に昭和二十五年に入った青木さんは、昭和三十年以降は一貫して国内一般=民間出版物の収集業務に当られ、昭和五十年退官に及んだ。米所蔵のものや、亡失した蔵書などを埋める仕事も青木さんが力をそそぎ、仕事の流れを築かれた一世界であった。そのデスクの右端に載っている『古書年鑑』(沼津 古典社)の幾冊かをいとおしむように撫でながら、「ここの『図書週報』は、何回か書いたら、購読料免除でね」と笑いながら、若い日々の愛書生活の回顧をぼつぼつとはじめるのはそのご機嫌のよい時であったろう。同誌の創刊は、青木さんが大連図書館へ入ったのと同じ昭和五年であり、それに続いた『書物展望』は昭和六年七月創刊。共に青木さんの趣好に合ったのか、幾篇かの寄稿が載っていることは、後者復刻版の著者索引で分かる。
それでも当初はまじめな図書館員であったろうに、柿沼介大連図書館長からは「日常の仕事は別として、図書館についての研究をしない」ように見られたので、「これからさき永く研究するつもりで収集していた書物関連の雑誌、なかには当時の金で三十円も出して入手したもの、そのほか明治以来の読書論、読書作法といったものなどを御覧にいれたところ大へん喜んで下さった」経験があったという(「柿沼先生」『旅順・私の南京 ほか十四篇』所収、昭和五十七年刊)。
それだからこそ『書物展望』誌の第二巻(昭和七年九月号)に、はやくも「雑誌論文牽引その他」と題してカレント誌連載の書誌書評を百タイトル近く報告しているのは、一般雑誌などほとんど軽視されていたこの頃では異色な業績だったし、また大満鉄図書館ならではという産物だったろう。はるか後年になるが、奇しくも青木さんが瞑目された半歳后にまとめられた『明治大正・昭和前期 雑誌記事牽引集成』全巻の「総目次」全二冊などを手にして、青木さんがまとめられた前記作業のいかに先駆的であったかに改めて感嘆させられる。
<国内出版物のもうら的収集>が、いかに法律にもとずいた業務とはいえ、検閲という強権をともなわぬ、素手に近い形で始めた「納本」制(出版物収集)がいかに苦渋にみちた途をきり拓いて築かれたかは、『布川角左衛門事典』(日本エディタースクール出版部販売。平成十年刊)所収の山下信庸の長文「国立国会図書館納本制度の原点」などに詳しい。これも戦前の図書館目録の常識には無い『全日本出版物総目録』という労編を手がけた青木さんならではの手法で、在任二十年の間に築かれた出版物収集事務のノウ・ハウは、青木さんをして「納本の神様」と、周辺の上司や同僚たちからの讃辞を奉られる存在とした。
そうした長い経験の中で、青木さんがいち早く着目された一ジャンルに<地方出版物>がある。寡占化し、硬直した出版取次業界のルートにのらないローカル出版社の、それなりにユニークであり、異色な優れた文化財の生産者、そしてその背後の多くの著者たちの中に、かつての、そして多くの同志文人の姿をも見出したのだろうか。後年の地方・小出版センター創業へとむすびつくこの分野育成への水先案内人としての役割は、伝統ある出版界情報誌『出版ニュース』に「地方出版物」欄常設への寄与となり、在館時には館の広報誌『国立国会図書館月報』の「本屋にない本」欄への選書担当などによって実現した。
近県で豆本などの趣味的な出版も手がけていて、某知名作家の令弟でもあったため斯界の衆評かまびすしかった真珠社についても、送本の包み方から、納本への協力ぶり、電話や郵便のやりとりを通じ、何も不快な思いをしないと評された。
古書業界代表のような顔をして、TVや書物誌の座談会に出たりして振る舞いながら、店売りは店員まかせなのか代金を二重請求をしたり、よその注文品をまぜて送本を送りつけたりする中堅古書商を「なにが<愛書家>代表なのかね」と冷笑しつつ、「それに比らべれば真珠社の主人は偉いよ」と誉め、地方小出版社の好例として文章にも書かれていた。やはり、青木さんこそ限定版や稀覯書を集めて悦に入っているだけでない<愛書人>であったかと偲ばれる。