MENU

最近のコラム
過去のコラム(月別)
古本関連ブログ
furuhon_manual.jpg 大好きな趣味で開業する!ネット古本屋開業マニュアル 大好きな事で開業や副業をしたい」方には、自分が好きな趣味の分野で、お店が開けるネット古本屋をおすすめします。ワクワクな副業・週末起業ライフ実現の方法を連載!

メールマガジン

早稲田の文人たち【その15】

早稲田の文人たち【その15】 宇野浩二【中篇】

宇野浩二は明治24年に福岡で生まれたが、彼が二歳の時に父親が
亡くなったために、一家は神戸の親戚を頼って関西に移住する。
浩二はここで幼少年期を過し、偕行社、育英(両方とも大阪の高等
小学校)、天王寺中学(旧制、現在の天王寺高校)と、まあ、いず
れも、大阪での超名門校に学ぶ(偕行社は軍人の子弟の学校で、
大店商家の子供も通ったが、卒業後は陸軍幼年学校へ進学する者が
多かった)。
 育英では細川卯一郎(横綱・大錦)、保高徳蔵(「文芸首都」
主宰)らと、天中では青木精一郎(大乗)、寺内万次郎、鍋井克之
(いずれも画家。浩二の本は鍋井の装幀のものが多い)らと交友を
持った。天中の上級生には折口信夫がいたが、交流を持つのは後年
である。

 浩二は満十八歳で上京し、早大予科(英文学科)に入学する。
入学当初は赤坂の親戚の家に寄寓するが、その年(明治43年)の秋
に、日本女子大学から目白寄りの雑司ケ谷に、家を借りて自炊生活
をはじめる。当時は、目白通りを少し入ったその一軒家のまわりは、
草原(!)で、茶畑(!)もあったらしい。その茶畑の向こうの
往来を、毎日のように劇作家の秋田雨雀(早大卒。逍遥門下)が
通りかかり、会釈を交わすうち、言葉も交わすようになったという
(次回に書く「美術劇場」で、浩二は、彼を巻き込んでいる)。
 翌年の春、浩二は牛込区(現・新宿区)白銀町の、赤城神社近く
の素人下宿に引越す。この素人下宿は大きな家で、同級生の三上於
菟吉や、泉鏡花の弟の泉斜汀夫妻ら、何人もの下宿人が住まってい
た。そして、この下宿先に三富朽葉や今井白楊、赤城神社境内の下宿
に住んで既に作家として名を成していた近松秋江などが、しばしば訪
れた。

 ところで、明治末年から大正の初年のこの頃、早大生の多くが、
この神楽坂近辺に下宿していたのは、なぜか? 
 それは、早大の正門が高田馬場の方を向いていないことからも分か
るように、当時は神楽坂、飯田橋、九段の方が開け栄えていたことと、
交通の便はそちらの方がはるかによかったことにほかならない。早稲田
はまだ郊外で、田圃のなかに学校がポツンとあった(大学のあるあた
りが、淀橋区として東京市に編入されたのは昭和7年のことである)。
その後(特に戦後)、山手線が栄え、中央線沿線などに下宿する学生ら
が高田馬場駅から歩いて通うようになったが、そのせいで、皆、裏門の
方から出入りするようになった。
 だから、古書店も、早稲田通りと、それ以前には鶴巻町にもあったの
である。もっとも浩二らの時代は大学あたりには何もなく、神田に足を
伸ばして古本を購ったが、この頃は歩くのは当たり前で、大した距離感
も持っていなかった。また当時の学生は、学校の授業はサボっても、
下宿で実によく古今東西の書物を繙き、友だちとの交流も多く、訪ねた
り訪ねられたりして談論した。
 ケータイで、「いま、なにしてる?」「エッ! マジかよ」程度の友
だちづきあいなど、この時代の学生には想像もつかなかっただろう。時
には喧嘩もしただろうが、友人関係は、今よりはるかに濃密なものであ
った。(以下次回)

------------------------------------------------------------------------
著者プロフィール 松本八郎(まつもと・はちろう)
1942年、大阪生まれ。早稲田在住40年。早稲田にて出版社EDIを主宰。忘れら れた作家たちをこつこつと掘り起こす。「EDI叢書」「サンパン」などを発行 して話題に。
「sumus」の同人でもある。
EDI ホームページ 
------------------------------------------------------------------------

2004年11月30日

投稿日 : 2004年11月30日

早稲田の文人たち【その14】

早稲田の文人たち【その14】 宇野浩二【前篇】

先日、広津和郎の『愛と死と』(牧野書店・昭和15年)という小品作品
と随筆を収めた本を手にいれた(この本の口絵に、文学アルバムなどでよ
く見かける、和郎が描いた父・広津柳浪の死顔の油彩が、当時としては珍
しいカラー印刷で掲げられている)。
 和郎は今の新宿区矢来町の生まれで、十代の少年時代まで、同じく弁天
町、鶴巻町と早稲田の近辺で過し、この本にはそうした明治時代の早稲田
の田園(というより田圃)風景も多く描かれている。そして、大学も早稲
田に学んだのであるが、彼については次の機会にまわして(戦後は作家活
動より「松川事件」で有名)、今回はその刎頚の友、宇野浩二(1891-1961)
をとりあげたい。

 というのも、和郎のこの本の「睨み返し」という直木三十五(現在は
「直木賞」で名を残す)についてのエッセイに、
 「序でだから云ふが、その時分の早稲田では、学校を卒業しなかつた連中
に、文壇でのチヤムピオンが大分出てゐる。直木がさうだつたし、直木よ
り一年前の宇野浩二が、やはり卒業してゐない。これは卒業間際まで学校
にゐて卒業しなかつたので、自分が後になつて、『君は卒業試験を受けな
かつたのか?』と訊いて見たら、『いや受けて卒業しなかつたのだ』と宇野
は苦笑してゐた。つまり落第して卒業が出来なかつたのである。三上於菟吉
も宇野と同期であつたが、これは多分予科か本科一年で止めてしまつたの
だつたと思ふ。」
 とあったからで、うかつにも<早稲田派>のボスのような存在の浩二が、
中退組とは知らなかったからでもある。

 で、さらに和郎の「序でだから云ふ」を真似して、序でにその頃の早稲田
大学英文科からどういう人物が生れたかを、浩二の『文学の三十年』(中央
公論社・昭和17年)に、浩二のクラスを中心にして、その前後の三、四年の
間の人物名を挙げているので、それを見てみると、
 「吉井勇、長田幹彦、吉田絃二郎、加能作次郎、三富朽葉、今井白楊、
広津和郎、谷崎精二、三上於菟吉、日夏耿之介、西条八十、直木三十五、
細田民樹、細田源吉、坪田譲治、保高徳蔵、評論家では、平林初之輔、
宮島新三郎。(中略)少し下の方で、右のやうな英文学科予科にゐた人物
では、牧野信一、岡田三郎、井伏鱒二、横光利一、高田保。それから、後
で知つたのであるが、私と同じ科に菊池寛が半年ほどゐた。」
 と書いているから、日本の近代文学史、文壇史は、この時代の<早稲田派>
ですべて語り尽くせる壮観さでもある。
 尤もこのうち、まともに早大を卒業した人物はだれとだれかというのは、
暇な人は調べていただきたいが、「文学の神様」の横光利一は、「文学の
鬼」の浩二と、同じ早大中退組である。まさに和郎のいう「早大中退者は
文壇のチャンピオンぞろい」なのである。
 ならば、早大は、なまじ卒業しないほうが、出世(?)するところなの
かもしれない。(以下次回)


------------------------------------------------------------------------
著者プロフィール 松本八郎(まつもと・はちろう)
1942年、大阪生まれ。早稲田在住40年。早稲田にて出版社EDIを主宰。忘れら れた作家たちをこつこつと掘り起こす。「EDI叢書」「サンパン」などを発行 して話題に。
「sumus」の同人でもある。
EDI ホームページ 
------------------------------------------------------------------------

2004年11月27日

早稲田の文人たち【その13】

早稲田の文人たち【その13】 尾崎一雄【後篇】

 1931(昭和6)年の夏、一雄は山原松枝と結婚する。この前後の話は「暢気眼鏡」
に詳しく、小説では芳枝(芳兵衛)と書かれるが、彼女はその後たびたび一雄作品に
登場する。戦後には「長篇暢気眼鏡」が書かれ、作品名を『芳兵衛物語』と改めた小
説が刊行される(1953年・池田書店)。この作品は、1973年のNHKテレビの銀河ドラ
マ(午後10時台)で「芳兵エ物語」という題で放映された。
 彼らの新居は牛込区馬場下(現・新宿区馬場下町)の東光館であった。この下宿屋
は、馬場下交差点の蕎麦屋「三朝庵」から早稲田中学(旧制)の方に三軒目ぐらいの
所にあり、当時は東光館と中学校との境には、井伏鱒二の『早稲田の森』にも出てく
る戸山の箱根山を水源とする芭蕉川が流れていた。東光館には相馬泰三(広津和郎ら
と「奇蹟」を創刊。後に同人に加わった谷崎精二とともに「奇蹟の三羽烏」といわれ
る)や、富沢有為男(画家、小説家。『地中海』で第四回芥川賞を受賞)らも下宿し
たことがある。

 一雄夫妻は翌年の夏、早稲田通りから面影橋に抜ける旧鎌倉街道(一雄は「戸塚街
道」と書いている)の赤門寺に近い、関口という素人下宿に移り、ここで長女・一枝
が生まれる。出産は赤門寺の隣の金田病院であった(この第一子誕生については
「猫」という題の作品がある)。
 妻・松枝が退院してすぐ、淀橋区諏訪町(現・新宿区。高田馬場駅近く)の諏訪神
社脇の借家に転居するが、この家で先の「暢気眼鏡」が書かれる。諏訪町は、後に志
賀直哉が奈良から東京に戻って来て最初に居を構えた処で、浅見淵や青柳瑞穂らも住
んだ(この一雄の転居にあたっては、金の無い一雄を見かねた浅見淵が友人たちに奉
加帳を持って奔走する。青柳瑞穂は詩人で仏文学者。彼は後に阿佐ケ谷に移り、中央
沿線の作家が集った有名な「阿佐ケ谷会」はその青柳邸で開かれる)。

 『新正統派』以来、五年の空白を経て、この頃になってやっと一雄は原稿用紙に向
かう気持ちになる。丹羽文雄や浅見淵らと同人誌『小説』を創めたのは33(昭和8)
年2月であった。編集兼発行人は一雄。編集所は一雄の自宅「諏訪町90小説社」。発
行所は早大正門前の書店「稲門堂」の番頭が独立して作った戸塚の「矢崎稲門堂」。
 本庄陸男の『石狩川』(1939年)など話題作を発行した古本屋「大観堂書店」は、
現在も新刊本屋で健在であるが、一雄は学院時代にここで『白樺』の大揃いを手に入
れて以来、大観堂主・北原義太郎と親交を結び、一雄の随筆には度々登場する。
 その後一雄は、上落合(なめくぢ横丁)、下落合、牛込区馬場下(ここはかつての
東光館の隣)と転々として、37(昭和12)年の秋に上野桜木町に移ったのは、高等学
院以来の友、山崎剛平の興した出版社「砂子屋書房」の相談役を浅見淵と交代したた
めであった。一雄は44(昭和19)年夏に発病し、疎開も兼ねて小田原に帰郷するが、
20余年の在京期間の大半を、早稲田かその周辺で過した。
 ということで、『あの日この日』はもとより、一雄の小説には、当時の早稲田界隈
がこと細かに記されている。またこれらを読むと、昭和文壇史のなかでの「早稲田」
の地位は、なかなかのものであるということもよく分かる。尾崎一雄は「早稲田フア
ン」にはぜひお読みいただきたい作家である。(この項、終わり)

(2003/12/14)

------------------------------------------------------------------------
著者プロフィール 松本八郎(まつもと・はちろう)
1942年、大阪生まれ。早稲田在住40年。早稲田にて出版社EDIを主宰。忘れら れた作家たちをこつこつと掘り起こす。「EDI叢書」「サンパン」などを発行 して話題に。
「sumus」の同人でもある。
EDI ホームページ 
------------------------------------------------------------------------

2004年11月25日

早稲田の文人たち【その12】

早稲田の文人たち【その12】 尾崎一雄【中篇】

 ドメニカの経営者S女は未亡人で、妹とともに穴八幡脇で喫茶店を開業した のは、尾崎一雄によると1925(大正14)年かその翌年であった。  ドメニカは、場所がら早大の学生や教師が多くたむろして、『街』同人の 田畑修一郎、寺崎浩、火野葦平(玉井雅夫)や、西条八十、谷崎精二、日夏 耿之介らの教授連のほか、市ケ谷・薬王寺に住んでいた加能作次郎や、作次郎 の博文館時代の部下であった岡田三郎らの早大卒業生、さらには一雄と 同郷(小田原)の川崎長太郎なども出入りしたという。

 一雄より2年後輩の早大国文科一年生が始めた同人誌『街』は、26(大正15)年 4月に創刊され、ドメニカが彼らの根城となっていた。一雄は『街』の同人では なかったが、この後輩たちとの付き合いから、一雄のドメニカ通いがはじまった。  後に流行作家となる丹羽文雄は、その最初の作品「秋」を、『街』に寄稿して いる。文雄は同人たちとは同級生であったが、彼らとの交際はなく、これは一雄 の推輓によって掲載されたものであった。それ以前、一雄は高田町雑司ヶ谷の下宿 近くにあったビリヤード・豊川亭で、文雄と知り合い、それがきっかけで、一雄が 文雄の作品を『街』に仲立ちすることになる。  この撞球場には、雑司ヶ谷の菊池寛邸に寄宿していた新感覚派の論客、片岡鉄兵 も通っていた。「片岡氏の撞球は謙遜でなく下手だった」と、 一雄は『あの日この日』に書いているが、後に、同人誌『新正統派』に一雄の短篇が 掲載された時、鉄兵はこの作品に難癖をつけたため、二人の間で激しい「やり合い」 が起こる。

 ドメニカのS女と結婚した一雄であったが、『新正統派』『文芸都市』などに作品 発表の場はあるものの同人誌では収入はなく、ヒモ生活で日常は荒み、創作そのもの にも打ち込めないでいた。そうした状況を打開すべく、29(昭和4)年12月に、高等 学院時代から私淑する志賀直哉を頼って、一雄は単身、奈良に赴く。八カ月ほど同地 で過し、翌年に帰京してのち、彼はS女との離婚を決意する。  収入のない一雄は、その年の暮れから、東京市役所(現・都庁)に勤める学院時代 の友人の伝手で、牛込区役所(今なら新宿区役所か?)税務課の臨時雇に採用され る。
数カ月勤務する内、志賀直哉の好意によって改造社版『日本文学全集』の一冊である 『志賀直哉全集』の校正の仕事を廻して貰うが、校了とともに、また職なし生活に戻 ってしまった。

 その後は友人の下宿などを転々としていたが、そうした頃、早大の後輩である 白井弘という人物が、「早稲田グランドの上側に沿つて、戸塚一丁目から、豊橋と 面影橋の中間あたりの川つぷちへ下る狭い坂道の途中」に、麻雀倶楽部を開くと いうので、一雄はその助っ人として懇請され、同時に、白井家に転がり込む。  そしてこの時、白井の妻君の女学校の同級生であった山原松枝と出会うこととな る。

(以下次回)
(2003.12.12)

------------------------------------------------------------------------
著者プロフィール 松本八郎(まつもと・はちろう)
1942年、大阪生まれ。早稲田在住40年。早稲田にて出版社EDIを主宰。忘れら れた作家たちをこつこつと掘り起こす。「EDI叢書」「サンパン」などを発行 して話題に。
「sumus」の同人でもある。
EDI ホームページ 
------------------------------------------------------------------------

2004年11月23日

早稲田の文人たち【その11】

早稲田の文人たち【その11】 尾崎一雄【前篇】

 二、三十年前ぐらいまでは、早稲田大学に入学した地方出身の学生たちは、 大学近辺の四畳半かせいぜい六畳一間の下宿屋に厄介になったものである (下宿屋は、現在のアパートともちょっと違う。尾崎一雄の『あの日この日』 には、「当時としては新式の洋風貸間――つまりアパート」という一節も出てく る)。
 昨今のようなキッチン・バス付きのワンルーム・マンションなどという贅沢な 話は、戦前はもとより、戦後の高度経済成長期にもなかったから、この間まで 早稲田界隈に在った下宿屋も、銭湯も、定食屋も、大学芋屋も、今ではほとんど 見かけなくなって、早稲田の町もすっかり様変わりしてしまった。

 ただ、戦前・戦後のそうした早稲田の町の風景や下宿生活は、数多くの作家 を輩出した早大ならではということもあって、彼らの作品や自伝によく描かれて いるので、それらを片手に早稲田界隈の路地を歩くと、今でも少しは当時の情景 をイメージすることが出来る。
 なかでも『暢気眼鏡』で第五回芥川賞(昭和12年上期)を受賞した尾崎一雄の、 先述の自伝『あの日この日』は詳細をきわめ、戦前の早稲田の町が手にとるように描かれているので、今回はこれをネタにひとくさり書いてみよう(『あの日この日』は、雑誌『群像』に1970年1月号から73年12月号に連載され、単行本が75年に 上・下巻で講談社から刊行。78年には続編の連載が『群像』で再開され、82年に 同じ版元から『続あの日この日』が刊行される。ボドニ・マーク時代の講談社文庫 にも収録)。

 尾崎一雄(1899-1983)は、1920(大正9)年4月に早大予科が新大学令によって新設された早稲田高等学院の一期生として入学して以降、37(昭和12)年秋に上野桜木町に転居するまでの、あしかけ17年もの間、早稲田近辺の下宿屋や借家を転々としながら棲み続けた作家である(この頃の高等学院は、現在の文学部の地所にあって、翌年の21年4月に第二学院が開校されたため、早稲田第一高等学院となる)。

 高等学院時代の一雄の下宿先は、当時は穴八幡の早稲田通りの筋向かいに在った水稲荷神社(戦後、現在の甘泉園に移転)わきの時習館(のちの日吉館。淀橋区戸塚町。現・新宿区西早稲田一丁目)であった。  1924(大正13)年、早稲田大学文学部国文科に入学。この年、時習館を出て、東京市外高田町雑司ヶ谷の素人下宿に転居し、さらに翌年、近くの借家に移る(いずれも現在の豊島区雑司ヶ谷、目白台の日本女子大学の傍)。  27(昭和2)年、早大卒業と同時に、それまでに入り浸っていた大学傍の喫茶店 ドメニカのS女と結婚。ドメニカは穴八幡わきの坂の途中に在って、この店の二階で離婚するまでの3年間を過し。その前後は私淑する志賀直哉を追って奈良に住んだり、東京に戻って友人の下宿に転がり込んだりするが、このあたりの話は次回に。

(この項つづく)

(2003.10.15)

------------------------------------------------------------------------
著者プロフィール 松本八郎(まつもと・はちろう)
1942年、大阪生まれ。早稲田在住40年。早稲田にて出版社EDIを主宰。忘れら れた作家たちをこつこつと掘り起こす。「EDI叢書」「サンパン」などを発行 して話題に。
「sumus」の同人でもある。
EDI ホームページ 
------------------------------------------------------------------------

早稲田の文人たち【その10】

早稲田の文人たち【その10】 保昌正夫【後篇】

 保昌正夫は「文学研究者」ではあったが、自らは研究者とは名乗らなかった。
新聞や雑誌に寄稿した時の職業欄には、大学に籍があったときは「○○大学教授」は当然として、退職してからは「文芸評論家」と紹介された。その頃二、三度、 寄稿文の掲載された紙誌が保昌から筆者に送られてきたが、それらの末尾に記されているパーレンで囲まれた肩書きには、いつも赤鉛筆の斜め線が引かれていた。「文芸評論家にあらず」という意味である(「先生」と呼ばれることも、時には嫌 われた)。

 生前の保昌正夫の単行著は、18冊ある。 41歳の年の1966年に発行された新書判サイズの『横光利一』(明治書院「近代作家叢書」の一冊として)が処女出版である。その「あとがき」に、「この小著は私の 愛惜する作家横光利一に関する中間報告である」と記され、「横光利一〈研究〉の 中間報告である」とは書いていない。二冊目は、14年後、55歳になった1980年刊行の『横光利一抄』(笠間書院「笠間選書」の一冊として)であるが、この二冊とも その目次に、「研究」や「論」と付けられた項目のタイトルはない。いや、一ヶ所 ある。『抄』の冒頭に掲げられた「横光利一論前提」である。が、これとて「〈論〉 を前提とした」といった意味合いであって「論」ではなく、さらにこの標題の下に 「(はしがきに代えて)」とパーレン囲みされているから、なおさらである。  自身の書いたものに対しても、「論文」や「レポート」といった言い方はしなか った。「エッセイ」も含めて、保昌にとってはすべて「書きもの」であった。忘れ られた作家の発掘やその年譜作成にも大きな功績をあげた保昌であるが、こうした「研究」も、「勉強」といい、これらの作家の初出誌探索には「雑誌勉強」とか、
苦労の多い年譜作りには「年譜勉強」ということばを好んで使った。ついでにいえ ば、その始まりにはかなり入念な「予習」があって、発表後になお補遺をしたり補 足した「書きもの」は、「復習」あるいは「おさらい」と言って憚らず、勉強好き の小学生「正ちゃん」が、そのまま大人になった感であった。

 大仰で難解な言い回しの文学論が流行って、そのとたん「ブンガク」が俄につま らなくなり、もう何年も前から文学不振が叫ばれている。  そんな中、なおも「文学を楽しみたい」とお思いの諸兄・諸姉には、上記以外に も以下の「保昌正夫の書きもの」を、一読されることをお勧めしたい。大の「本好 き」で、文学が好きで好きでたまらなかった文人学者が、権威や名声のために書き残したものでなく、著者自身が楽しんで書いたものなので、これらの著作を読むと、あなたが読んだこともない作家や作品の「虜」になること、確約します。  ただし、著者の意向で、各書とも発行部数は少なく、ほとんどが小さな清楚な本なので、早稲田古本村の各店舗の棚を、目を皿のようにしないと見つからないか も……。

『近代日本文学随処随考』(双文社出版・1982) 『牧野信一と結城信一』(宮本企画・かたりべ叢書・1987) 『横光利一全集随伴記』(武蔵野書房・1987) 『横光利一とその周辺』(帖面舎・1989) 『13人の作家』(帖面舎・1990) 『昭和文学点描』(勉誠社・1993) 『横光利一見聞録』(勉誠社・1994) 『七十まで・・ときどきの勉強』(朝日書林・1995) 『川端と横光』(日本古書通信社・こつう豆本・1995) 『牧野英二』(EDI エディトリアルデザイン研究所・1997) 『川崎長太郎抄』(港の人・1997) 『和田芳恵抄』(港の人・1998) 『瀧井孝作抄』(EDI エディトリアルデザイン研究所・1999) 『横光利一・・菊池寛・川端康成の周辺』(笠間書院・1999) 『昭和文学歳時私記』(日本古書通信社・こつう豆本・2000) 『同人誌雑評と「銅鑼」些文』(港の人・2001)

なお、これらの細目は、『サンパン』第III期第4号「保昌正夫追悼特集」 (EDI発行・2003年3月)に掲載されている(問い合わせ先:edi@edi-net.com)。

(この項、了)

(2003.9.15)


------------------------------------------------------------------------
著者プロフィール 松本八郎(まつもと・はちろう)
1942年、大阪生まれ。早稲田在住40年。早稲田にて出版社EDIを主宰。忘れら れた作家たちをこつこつと掘り起こす。「EDI叢書」「サンパン」などを発行 して話題に。
「sumus」の同人でもある。
EDI ホームページ 
------------------------------------------------------------------------

2004年11月18日

早稲田の文人たち【その9】

早稲田の文人たち【その9】 保昌正夫【中篇】

 その保昌正夫の、当然といえば当然な、もっとも大きな仕事に、『定本 横光 利一全集』全16巻(1981-87・河出書房新社)がある。
 ――全16巻完結の翌年には、保昌によって編まれた『横光利一全集月報集成』 (1988・同)があり、さらにその11年後に保昌の粘りによって「補巻」(1999・同) が刊行されている。よって、『定本 横光利一全集』は、現在のところ、この2巻 が加わった「全18巻」で、「完結」とされる。
 ――なお、さらに余談ながら、全集ものの古書価の値下がりが激しいこの節、 これらのすべて(全18巻)が揃うと、その古書価は飛躍的な金額となるから、こ の全集だけは要注意。とりわけ「補巻」は入手しがたい。

 『定本 横光利一全集』は、「個人全集」としては過去に類を見ない大編纂 事業として称賛され、編集の緻密さにおいても最大級の評価を得たものである。 それゆえに、保昌は、この全集の企画・編集・校訂に、全生涯を傾けたといっ ても過言ではないと思うが、彼の仕事は、なにも「横光」ばかりではない。  急逝されたために、惜しくもその完結をみられなかった最後の仕事に、『牧野 信一全集』全6巻(2002-03・筑摩書房)や「EDI叢書」全12巻(2000-・EDI)が あるが、それ以前には、『浅見淵著作集』全3巻(1974・河出書房新社)や「講 談社文芸文庫」(文庫の会)などなど、「個人全集」や「文学全集」その他の 企画・監修・編纂に携わった仕事は数えきれないほどあって、とうていここに は列記できない。

 「浅見淵」は「早稲田古本ネット」でも触れたように、保昌は早大高等学院 の教員時代に浅見と出会い、その後の保昌の「文学に向かい合う姿勢」を決定 づけた人物である。ゆえに、保昌にとって『浅見淵著作集』の編纂は当然の仕 事であったが、浅見没後10年の年に、保昌は自腹を切って『浅見淵の歌』(1984 ・河出書房新社)を「槻の木叢書」の一冊として、編み、刊行している。  この熱意、情熱は奈辺にあるのか? このあたりが、保昌を単なる文学研究者に終らせなかった「最後の文人学者」たる所以でもあるのだろう。

(以下、次回)

(2003.8.13)

------------------------------------------------------------------------
著者プロフィール 松本八郎(まつもと・はちろう)
1942年、大阪生まれ。早稲田在住40年。早稲田にて出版社EDIを主宰。忘れら れた作家たちをこつこつと掘り起こす。「EDI叢書」「サンパン」などを発行 して話題に。
「sumus」の同人でもある。
EDI ホームページ 
------------------------------------------------------------------------

早稲田の文人たち【その8】

早稲田の文人たち【その8】 保昌正夫【前篇】


 今回も「文人」というのにこだわって、古い話を持ち出そうと考えたけれど、 古い話はともかくとしても、「文人」なる「人種」そのものが、こんにちでは絶えて久しい。
そう考えると、今の若い人には、「文人」そのものが、なかなか理解しがたいのではないか、と思い至った。  それに、〈早稲田の文人〉が、「三田派」の野口冨士男で“最後”、というのも悔 しいし、片腹痛い。
 どうしようかと思い悩んでいたら、さすが「早稲田」である。絶滅したはずの「文 人種」が、つい昨年まで現存していた、ということを思い出した。 それも「純粋種」の〈早稲田の文人〉である。

 昨年(2002年)11月20日、77年の生涯を了えられた「保昌正夫(1925-2002)」 が、その人である。  氏は、人も知る「横光利一研究」の第一人者。早大中退の横光利一の後輩で、 筑土八幡で生まれ、早大卒業後は早大高等学院教諭を経て、いくつかの大学教授を歴任され、その間、早大のさまざまな学部の講師も務められ、雑誌『早稲田文学』の編集委員でもあった。

 で、さて、横光利一(1898-1947)は、周知のように、戦前には「文学の神様」と までいわれた作家である。  しかし、新感覚派時代のプロレタリア文学との対峙が祟ったのかどうか、戦後は 「戦争責任」を問われたこともあって、敗戦後のニワカ民主主義文学者らによって 完膚無きまで叩きのめされる。
 また、僚友にして、その後はノーベル賞作家となった川端康成に、戦後は人気も 逆転され、まったく失意のうちに逝ってしまった「可哀相な作家」(保昌正夫)な のである。  そんな横光を、近代文学研究の上だけでなく、一般読書人に「横光文学」を復権 させ、さらに再評価の気運を為さしめたのが、今回の主人公である保昌正夫であった。 (以下、次回)

(2003.7.10)


------------------------------------------------------------------------
著者プロフィール 松本八郎(まつもと・はちろう)
1942年、大阪生まれ。早稲田在住40年。早稲田にて出版社EDIを主宰。忘れら れた作家たちをこつこつと掘り起こす。「EDI叢書」「サンパン」などを発行 して話題に。
「sumus」の同人でもある。
EDI ホームページ 
------------------------------------------------------------------------

早稲田の文人たち【その7】

早稲田の文人たち【その7】 野口冨士男【後篇】

 この本(『私のなかの東京』)の副題に「わが文学散策」とあるように、ここ には、大正・昭和の文学史・文壇史とともに、東京の古い町並みが、今のわれわ れにも視覚的にとらえられるほどの、見事な「語り」で綴られる。  野口の仕事には、文壇史料として、前回にも記した『感触的昭和文壇史』があ り、東京の町々を背景に小説仕立てにしたものに、先の『野口冨士男自選小説全 集』にも収録の『いまの道のべに』(昭56・講談社)という作品集もある。

 『いまの道のべに』は、大崎、神田、新宿、鴬谷、大塚、新橋といった、JR (当時は国電)山ノ手沿線の町々を舞台にした「私小説」である。  作者の住む高田馬場は、『私のなかの東京』と同様、最終篇に収められる。

 これらの作品を通読すると、野口が昭和14(1939)年から住み着いた西早稲田 (元・戸塚町)や、早大出の文人たちが、あまり頻繁に出てこないのが、「早稲 田派」の私としてはやや不満である。
 しかし、まあ、『わが荷風』(昭50・集英社)を追っかけた「三田派」なら、 これは致し方のないところかもしれない(『私のなかの東京』も、どちらかとい うと「わが荷風」の追っかけである)。

 なお、『私のなかの東京』は、「中公文庫」でも1989年に刊行されているが、 いま手許にある、その約10年後に出た1998年版『中公文庫・解説目録』には、絶 版にされたのか、掲載されていない(『いまの道のべに』は、どこの「文庫」に も収められていない)。
 「文壇史」や「東京散策モノ」に興味のある方には、いずれの本も必読の書で はあるが、そういう事態なので、これらの本は、早稲田古本村を一軒一軒、丹念 に探索されることをお勧めする。 (この項、了)

(2003.6.13)

------------------------------------------------------------------------
著者プロフィール 松本八郎(まつもと・はちろう)
1942年、大阪生まれ。早稲田在住40年。早稲田にて出版社EDIを主宰。忘れら れた作家たちをこつこつと掘り起こす。「EDI叢書」「サンパン」などを発行 して話題に。
「sumus」の同人でもある。
EDI ホームページ 
------------------------------------------------------------------------

早稲田の文人たち【その6】

早稲田の文人たち【その6】 野口冨士男【前篇】

昨年「早稲田古本ネット」で同名のコラムを持っていましたが、資料探しでバタバタするうち休載が続いてしまいました。そこで、今回はあまり資料を必要としない話で気楽に、という「古本村青年部長」のお勧めもあって、再度登板させていただくことになりました。 
  前にも増して、脈絡なく、いい加減な話になりそうですが、何卒よろしくお付き合いください。――筆者敬白

  で、いきなり慶応中退の「野口冨士男(1911-93)」の登場で、早くも早慶戦の態なれど、何を隠そう、この方こそ、明治・大正・昭和と続いた歴史ある文学者居住区「早稲田」の地に住み着いた、ほとんど最後の〈早稲田の文人〉なのである。

氏はちょうど10年前に亡くなられたが、それまでは、早稲田古本村や早稲田通りをぶらついておられるお姿を、よく見かけたものである。
  氏には、傘寿(80歳)の年に発行された『野口冨士男自選小説全集』(平3・河
出書房新社)に代表される小説群のほかに、『徳田秋聲傳』(昭40・筑摩書房)『日本ペンクラブ三十年史』(昭47・日本ペンクラブ)、『感触的昭和文壇史』(昭61・文藝春秋)などの仕事がある。
  また、芸術院会員にして、文芸家協会理事長でもあった。

  その野口に、自宅のある「西早稲田二丁目」から、諸方に散歩に出掛けた話に、『私のなかの東京――わが文学散策』(昭53・文藝春秋)という本がある。
  神楽坂育ちの著者は、まず最初の章で、飯田橋から外濠にそって、幼稚舎時 代から通った慶応のある三田までを歩く。
  その後、銀座界隈、小石川・本郷・上野、浅草・吉原・玉の井、芝浦・麻布・渋谷と巡って、この本の最後の章は、再び神楽坂から早稲田に帰ってくる、という構成になっている。 (以下、次回)

(2003.5.20)

------------------------------------------------------------------------
著者プロフィール 松本八郎(まつもと・はちろう)
1942年、大阪生まれ。早稲田在住40年。早稲田にて出版社EDIを主宰。忘れら れた作家たちをこつこつと掘り起こす。「EDI叢書」「サンパン」などを発行 して話題に。
「sumus」の同人でもある。
EDI ホームページ 
------------------------------------------------------------------------

2004年09月29日

[早稲田の文人たち過去のコラム]
2004年09月21日 15:50:早稲田の文人たち【その5】
2004年09月07日 12:39:早稲田の文人たち【その4】
2004年08月22日 00:46:早稲田の文人たち【その3】
2004年08月16日 12:34:早稲田の文人たち【その2】
2004年08月02日 01:27:早稲田の文人たち【その1】