早稲田の文人たち【その15】 宇野浩二【中篇】
宇野浩二は明治24年に福岡で生まれたが、彼が二歳の時に父親が
亡くなったために、一家は神戸の親戚を頼って関西に移住する。
浩二はここで幼少年期を過し、偕行社、育英(両方とも大阪の高等
小学校)、天王寺中学(旧制、現在の天王寺高校)と、まあ、いず
れも、大阪での超名門校に学ぶ(偕行社は軍人の子弟の学校で、
大店商家の子供も通ったが、卒業後は陸軍幼年学校へ進学する者が
多かった)。
育英では細川卯一郎(横綱・大錦)、保高徳蔵(「文芸首都」
主宰)らと、天中では青木精一郎(大乗)、寺内万次郎、鍋井克之
(いずれも画家。浩二の本は鍋井の装幀のものが多い)らと交友を
持った。天中の上級生には折口信夫がいたが、交流を持つのは後年
である。
浩二は満十八歳で上京し、早大予科(英文学科)に入学する。
入学当初は赤坂の親戚の家に寄寓するが、その年(明治43年)の秋
に、日本女子大学から目白寄りの雑司ケ谷に、家を借りて自炊生活
をはじめる。当時は、目白通りを少し入ったその一軒家のまわりは、
草原(!)で、茶畑(!)もあったらしい。その茶畑の向こうの
往来を、毎日のように劇作家の秋田雨雀(早大卒。逍遥門下)が
通りかかり、会釈を交わすうち、言葉も交わすようになったという
(次回に書く「美術劇場」で、浩二は、彼を巻き込んでいる)。
翌年の春、浩二は牛込区(現・新宿区)白銀町の、赤城神社近く
の素人下宿に引越す。この素人下宿は大きな家で、同級生の三上於
菟吉や、泉鏡花の弟の泉斜汀夫妻ら、何人もの下宿人が住まってい
た。そして、この下宿先に三富朽葉や今井白楊、赤城神社境内の下宿
に住んで既に作家として名を成していた近松秋江などが、しばしば訪
れた。
ところで、明治末年から大正の初年のこの頃、早大生の多くが、
この神楽坂近辺に下宿していたのは、なぜか?
それは、早大の正門が高田馬場の方を向いていないことからも分か
るように、当時は神楽坂、飯田橋、九段の方が開け栄えていたことと、
交通の便はそちらの方がはるかによかったことにほかならない。早稲田
はまだ郊外で、田圃のなかに学校がポツンとあった(大学のあるあた
りが、淀橋区として東京市に編入されたのは昭和7年のことである)。
その後(特に戦後)、山手線が栄え、中央線沿線などに下宿する学生ら
が高田馬場駅から歩いて通うようになったが、そのせいで、皆、裏門の
方から出入りするようになった。
だから、古書店も、早稲田通りと、それ以前には鶴巻町にもあったの
である。もっとも浩二らの時代は大学あたりには何もなく、神田に足を
伸ばして古本を購ったが、この頃は歩くのは当たり前で、大した距離感
も持っていなかった。また当時の学生は、学校の授業はサボっても、
下宿で実によく古今東西の書物を繙き、友だちとの交流も多く、訪ねた
り訪ねられたりして談論した。
ケータイで、「いま、なにしてる?」「エッ! マジかよ」程度の友
だちづきあいなど、この時代の学生には想像もつかなかっただろう。時
には喧嘩もしただろうが、友人関係は、今よりはるかに濃密なものであ
った。(以下次回)
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著者プロフィール 松本八郎(まつもと・はちろう)
1942年、大阪生まれ。早稲田在住40年。早稲田にて出版社EDIを主宰。忘れら れた作家たちをこつこつと掘り起こす。「EDI叢書」「サンパン」などを発行 して話題に。
「sumus」の同人でもある。
◎EDI ホームページ
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