
【第8回目】
バタバタと毎日が過ぎてゆく。
さて、早稲田松竹の件では、毎日新聞に取り上げられるまでになった。(夕刊だけど)
誰だって、普通に生きていれば、取材されるということはほとんどないと思う。
ちょっとその話について、書いてみようかと思った。
最初に連絡があったのは、9月10日のメールだった。
プロジェクトのHPをごらんになったらしく、そこで、お話を聞かせてほしいというメールが来たのだ。
沼田としては、突然のことでちょっと驚いたのだが、9月末からは、広報に力をいれ、一気にプロジェクトの認知度を上げて、一気に覇を唱えるという展開を想定していたので、まったく問題はない。それにしても、どうして、このHPをみつけるにいたったのだろう?と不思議に思った。
記者さんは、フジタさんといい、何通かのメールをやり取りを終えて、13日19:00、待ち合わせ場所を早稲田松竹の前とした。目印は、記者さんは毎日の新聞を、沼田は、重そうなファイルを、ということにしておいた。
当日、少し早めについた沼田は、早稲田松竹の前は、いつのまにやら、仕事をしないで、拾った本を売り、ダンボールで寝ている人たちの居城と化してしまっていることに苦笑せざるえなかった。芥川の「羅生門」・・・さらには、寺山修二を思い出した。「書を売ろう。町に住もう」・・・そんな馬鹿なことを考えていると、フジタさんがいらっしゃった。
一目見て、フジタさんだとわかった。恰幅のいい、記者さんというよりは、どこかの会社の重役さんに見えた。僕らは、挨拶もそこそこに近くのエクセシオールに入って、そそくさと名刺交換を行い、話を始めた。ここで、「名刺をつくられたんですか???」と聞かれ「ええ。」と答えたのだが、たしかに、学生で、名刺を持つというのはあまりしないことだな、と思った。だけど、沼田の周りは学生なのに、名刺持っているのが普通の輩たちなので、言われて、はっとする有様。そうかそうか、自分も含めて、ちょっと我々はおかしな集団なのかも・・・。
話がそれてしまったが、結論からいうと、これ以上なくうまく説明できたと思う。流れるように言葉が出てきたので、沼田自身がわが身を疑ったほどだった。フジタさんは慣れた手つきでメモを取り、一時間ぐらいの取材だった。
ほとんど沼田がしゃべったわけだが、さいごに、
「なんで、この活動をお知りになったのですか?」と聞くと、
「いやあ、馬場で飲み屋を探していたんですよ」と答えが返ってきた。
そのときに、そういえば、休館になった、早稲田松竹はどうなっただろうか、と興味をもったのだろう。そんなわけで、後半は雑談を交えつつ、つたなく取材も終わりフジタさんとわかれた。取り立てて緊張することもなく、成功といえるだけの手ごたえはあった。続いて17日には、日経ホーム出版の取材もうけたのだが、説明はうまくできていた。
沼田も少し自信をつけ、あるプレゼンに望むことになる。
沼田のかかわるサークル。そのサークルで、プレゼンテーションをすることは、そのサークルが特殊なサークルであるがゆえに、重要な意味を成す。
これに関してはまた次回。
(*ちなみに、9月21日、毎日新聞の夕刊に記事が掲載されたわけだが、一番喜んだのは「母」だった。これは、おそらく、我が家で永久保存版の記事となるのでしょう。家宝になるやも。)
(2002.9.25.)
☆著者プロフィール---------------------------------------------------------
沼田真一
1978.8.6生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。4年都市計画のゼミに所属。
幼年期を茨城県水戸市で過ごし、少年期は群馬県館林市、小学六年生より現在まで埼玉県川越市に住んでいる。天真爛漫な高校生活では吹奏楽部に所属し、男子校吹奏楽部の部員として、特異な生活と仲間を手に入れた。さまざまな伝説と逸話をともにした高校生活にピリオドを打つと、一部のできのいい友人を除いて、多くの仲間とともに予備校生活に入る。現役時代の失恋の痛みを勉強の励みに換えて、二年後に早稲田大学社会科学部に合格。めでたく入学した。「不可能を可能にする男」(自称)として、その努力と強運で友人たちに広く恐れられることになる。たくさんの出会いと別れを繰り返しながら、人生をより広く豊かにしつづけながら現在に至る。
現在『duce』の代表として、映画のすばらしさを多くの人に知ってもらうための方法、仕組みを検討中。
◎早稲田松竹復活プロジェクトHP
◎ブログ『waseda-community』
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