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早稲田の文人たち【その4】

早稲田の文人たち【その4】 谷崎精二(つづき)

 雑誌『早稲田文学』は、1891年(明24)に坪内逍遥によって創刊された。当初は早大の前身・東京専門学校の発行であったが、93年(明26)の49号から逍遥の早稲田文学社の発行となり、実質的には「逍遥の雑誌」として刊行され、98年(明31)に156冊をもって終わる。
 第二次『早稲田文学』は、島村抱月によって1906年(明39)に復刊される。途中、抱月が松井須磨子と芸術座を旗揚げして以降、相馬御風、中村星湖らが同誌主宰者の代行を務めたが、17年(大6)6月号からは、英文学者で評論家の本間久雄が代行を務め、翌年、彼が早大講師となったと同時に同誌の主幹となる。第二次はその後、本間が早大から海外研修を命じられ渡英したため、27年(昭2)12月号をもって終刊となる。しかし、この終刊は、どうもそれだけの理由ではなかったようである。

 第二次『早稲田文学』 が発行されていた1912年(大元)、舟木重雄(早大卒業)や広津和郎(早大卒業)、相馬泰三(早大中退)、葛西善蔵(早大聴講生)らは、前回にも触れた同人誌『奇蹟』を創刊する(少し遅れて谷崎精二が加わる)。彼らはその頃の『早稲田文学』にも寄稿していたが、編集主幹に本間がその座を占めて以降、小説などの創作物の掲載が少なくなり、研究論文中心のあたかも「国文学研究誌」のごとき様相を呈したため、『早稲田文学』は、もはや作家志望者や文学好きの読者の欲求を満たす「文芸誌」ではなくなっていた。
 そのために、早大卒業組の牧野信一(大10年9月号に「痴想」一作のみ)、下村千秋、浅原六朗らは『十三人』という同人誌を、岡田三郎、戸川貞夫、浜田広介らは『地平線』といった、それぞれ自らが創刊した同人誌を中心に活動をし始め、中退組の宇野浩二や横光利一などは、『早稲田文学』には一作も寄稿しないまま文壇への登場を果たす、という事態にもなる。 
  ――同じような話は、尾崎一雄の『あの日この日』(1975・講談社)にも、「『早稲田の文科』に対するあこがれに似た気持があって、それで早稲田に入った」のであるが、「私共文学書生から見ると、当時の『早稲田文学』は、文学研究雑誌であった」と書かれている。 

 本間編の「研究誌」然とした第二次『早稲田文学』の後半あたりからは、他の商業文芸誌の人気にも翳りが出始める。そうしたこともあって、作家志望者たちは同人雑誌に自らの拠点を求めて活動の場を作ろうとし、昭和の初年代から十年代にかけては、「文芸復興期」ともいわれるほどの未曾有の同人誌が乱立する。
 その代表的な同人誌は『世紀』で、1934年(昭9)年4月に、『麒麟』同人の「蔵原伸二郎、小田嶽夫、川崎長太郎ら」と、旧『青空』同人の「中谷孝雄、外村繁(彼らは『麒麟』にも所属)、淀野隆三、三好達治ら」、『小説』同人の「尾崎一雄、丹羽文雄、浅見淵の早稲田組に丸山薫らを加えた」人々が、大同団結して創刊される。

 同じ年、『早稲田文学』は創作、随筆に重きをおいたかたちをとって、谷崎精二によって第三次として再復刊される。これには、精二の恩師であり当時文学部長であった孤雁吉江喬松の後押しがあったといわれる。
 さらにこの時期の日本は、今日の「不況」と一般読者の「文学離れ」同様、「政治ムード」もきわめて似通った状況を呈する。スペースがないので少しだけ書けば、第三次創刊の翌々年には「2・26事件」が起こり、さらにその翌年には「盧溝橋事件」が起こり、かくして41年(昭16)に太平洋戦争に突入して行く、という歴史の転換期が待ち構える。 
 第三次創刊年の寄稿者には、青野季吉、森山啓、窪川鶴次郎といったプロレタリアからの転向組や、「新感覚派」の命名者で文芸ジャーナリストの千葉亀雄や、長谷川天渓、さらに木下尚江、武林夢想庵といった人々のほか、当時新進の尾崎士郎、阿部知二、亀井勝一郎といった名が並ぶ。先の話の繋がりでいえば、これらを単に「早大関係者」が打ち揃って、というレヴェルだけではなく、この時代や世相を視界に入れて見ていくと、この第三次はたいへん興味深い。

 さいわい『早稲田文学』は、そうした状況下にあって、「右傾も左傾も」せず、「時勢が変ると共に攻撃の風向きが転」じ、「同人の時局に対する認識も必ずしも一致せず、歩調を揃える事に多少の苦心があった」が、「『早稲田文学』をして文壇に於ける自由主義最後の堡塁たらしめん事が谷崎の秘(ひそ)かな念願であった」とは、精二自ら、早稲田大学創立七十五年記念出版『日本の近代文藝と早稲田大學』(昭32・早稲田大学)の「『早稲田文学』の歴史」に誌するところである。
 こうして第三次は、敗戦の年の45年(昭20)1月から11月まで休刊しただけで、奇跡的にも雑誌の刊行を続けるが、戦後は極度のインフレによって、ついに49年(昭24)の2、3月合併号(第16巻第1号通巻143冊)を持って休刊に追い込まれてしまう。 

 以上ここまでは、前に紹介した浅見淵著『史伝 早稲田文学』をかなり端折ったところで参考にさせて貰っているが、実は、この本は淵の逝去によって、第三次の中程で筆が断たれている。
 その後は、『史伝』の保昌正夫の「解説」によると、第四次『早稲田文学』は49年(昭24)5月号から始まる。しかしこれは、石川利光、宮内寒弥らの1号で途絶えた『文学者』の同人が「『早稲田文学』の編集権を譲り受けての復刊」であったらしい。そして第四次は、わずか4号で潰れる。
 本格的な復刊は、51年(昭26)11月号で、これは第五次とされる。編集委員は浅見淵、野村尚吾、小沼丹、新庄嘉章、寺崎浩、暉峻康隆、八木義徳、そして谷崎精二であった。

(以下、次回につづく)
(2002.7.25)



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『早稲田文学』創刊号
1934年(明24)10月
坪内逍遥創刊


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第二次『早稲田文学』
1924年(大13)11月号
表紙絵:今和次郎


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第三次『早稲田文学』創刊号
1934年(昭9)9月
表紙絵:小杉放庵


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『世紀』創刊号
1934年(昭9)6月
表紙デザイン:棟方志功

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著者プロフィール 松本八郎(まつもと・はちろう)
1942年、大阪生まれ。早稲田在住40年。早稲田にて出版社EDIを主宰。忘れら れた作家たちをこつこつと掘り起こす。「EDI叢書」「サンパン」などを発行 して話題に。
「sumus」の同人でもある。
EDI ホームページ 
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2004年09月07日

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