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特集1 早稲田・古本屋の女房たち

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古本共和国 第15号('00)

たくさんの人々に支えられて・・・浅川書店 浅川玲子
溢れかえる古書と格闘の毎日・・・渥美書房 渥美幸子
本に囲まれて過ごす日々・・・安藤書店 安藤紘子
近頃のお客さんたち・・・飯島書店 飯島芳子
お客さんとのふれあいが「元気の素」・・・五十嵐書店 五十嵐純子

温泉街から早稲田へやってきて・・・一心堂書店 水井輝
同等の仕事ができる喜び・・・ウィズ25鶴本書店 東裕子
楽しみながら人の役に立つ生き方を目指して・・・岸書店 岸愛子
赤ちゃんをあやしながらのお店番・・・金峯堂書店 日野原三幸
個性的な家族と猫に囲まれて・・・古書現世 向井菊枝

楽しいお店番・・・三楽書房 佐藤緑
古本屋模様、今昔・・・尚文堂書店 森田文子
「車で外回り」は私の役目・・・西北書房 鈴木たま子
日曜日には二人で散歩を・・・谷書房 長谷川澄江
「四月」は一年分の本を売る時期・・・稲光堂書店 三瓶峰

ミーコはネズミ捕りの名手・・・白欧堂書店 佐田和子
お客さま、十人十色・・・平野書店 平野良
「日本海の荒波」のごとき本の中で・・・文英堂書店 吉原瑩子
BIG・BOX展にも参加して・・・三幸書房 飯島克子



たくさんの人々に支えられて
浅川書店 浅川玲子
  生まれ育った家がお菓子屋を営んでいましたので、お店というものに抵抗はありませんでした。商売人と結婚したらお店版をするというのも、会社に入ったら会社の仕事をするのと同じように、私にとっては自然なことでした。

子供が生まれてすぐに店番もしましたが、おかげさまで店を手伝ってくれる方々にも恵まれ、二人の子も元気に成長してくれました。
BIG・BOXの即売展も大変ですが、周囲の皆さんが手助けをして下さるので楽しくやってこられました。
一番の楽しみは旅行へいくことです。娘夫婦が特に、山登りが大好きで、館山、車山、穂高、塩山、大菩薩峠など、色々なところへ行きました。大きなリュックサックに荷物を詰めたものは他の人々が背負って持ってくれるので自分の身を持ち上げるだけで良いのですが、私はリフトなどには恐くて乗れないので、普通の人よりも余計に歩かなければなりません。山の頂上までの道のりは本当に辛いのですが、てっぺんにたどりついて見渡す眺めは実に美しく、言葉では言い表せないほどの素晴らしさです。

二年前には、娘と一緒にオーストラリアを訪ねて、初めてシドニーの地を訪問しました。日常なかなか見ることのできない景色を目にしたり、その土地の心温かい人たちと交流することは望外の幸せと言えます。



溢れかえる古書と格闘の毎日
渥美書房 渥美幸子

私の仕事は店番と古書目録の入力、そして本の発送ですが、一番困っているのは、本が溢れかえっていて置き場所が無いことです。
主人は本を捨てられない人で、いくら本があってもまた買ってきます。値段付けと整理は主人しかできないので、結局のところ、未整理の本がお店の中で山積みになります。他のお店もこういうところはあるのでしょうが、うちは特にひどいと思います。

あるお客さんが積んである本を指して、「この本はいくらですか」とおっしゃるので、「それは未整理の本なので」と答えたら、「一年前にもそう言われました」言われてしまいました。

目録注文の本の発送を店の帳場でやるものですから、送ろうと思っていた本を、たまたま来店されて買ったお客さんの袋の中に混ぜて入れてしまったこともありました。一度はすぐに気がついて追いかけ、返していただきましたが、もう一度は後日、お客さんがわざわざ店まで戻しに来てくださいました。このように親切なお客さんとの出会いは嬉しいですね。

学生さんのリュックサックで本が崩れることなど、しょちゅうです。店に置ききれない本は自宅にまで侵出していて、これが夫婦喧嘩のタネになっています。この本だらけの状況は本当にいやになります。

近頃ではさすがに、だいぶんあきらめが付くようになりましたが、こうなるまでに二十年かかりました。お客様、ごめんなさい。
主人は真面目でやさしい人で、ちょっと頑固です。サラリーマンには向いていないと思います。家事の手抜きと本が溢れているのとで家の中はぐちゃぐちゃの状態ですが、主人は何も文句を言いません。もっとも何か言うと十倍になって返ってくるので言わないのかもしれません。

5年ほど前から息子が店の手伝いをしてくれるようになりました。中学校時代からワープロに触っているような子だったので、パソコンを使う古書目録の仕事と力仕事を担当していますが、本を覚えるのがこれからの一番の仕事です。実は親子でやっていくのには、他人との関係より難しいこともあるのです。甘やかしてはいけませんし、真剣に喧嘩もします。今年23歳になりましたが、悪友が多い割には女性のお友達に恵まれていない様です。

目録作りには神経を使います。特に本の状態の表記にはよく気をつけて見ています。やはり、自分がもらったらいやだと思うような状態の本は送りたくありませんから。
いろいろ大変なことはありますが、今は息子も重要な(?)働き手となってくれていますし、娘は辛口ながらも時には女同士相談相手になってくれる様にもなりましたので、3歳と2歳の子供をそれこそ「おんぶに抱っこ」で店番をしていた20年前のことを考えれば、楽になったものです。これからも毎日をつつがなくすごしていかれればいいと思っています。



本に囲まれて過ごす日々
安藤書店 安藤紘子

以前は来店されるお客さまというと男性がほとんどで、女性客は10人に1人の割合くらいでしたが、ここ10年で女性が随分と増えました。今ではお客様の半分くらいが女性だと思います。まとめ買いをなさる大学院生の方もいらっしゃいますし、買い物のついでに文庫本をお買いになる主婦の方、70代のご婦人までおいでいなり、古本屋に入って本を買うことに抵抗がなくなったという印象があります。一般の人たちに受け入れられてきたということでしょうか。

私は子供の頃から本が好きで、中学時代にはヘルマン・ヘッセや島崎藤村などを読んだりしていたので、こうして本に囲まれて過ごすのは好きです。でも、結婚して店番の手伝いをするようになるまで、外で働いた経験はありませんでした。今思い返してみると、もっとあれこれ考えてやればよかったのに、何もせずに数10年の時を経てしまったと、反省することしきりです。

私の仕事は主人が仕入れや即売展で不在の時に店番をすること。店内の本を整理したり、主人が付けてくれた値段を値段票に記して本の袖に貼りつけ、背にも値段を書いた紙片を付けて本をセロファンでくるむ仕事をしています。

主人は漫画が好きで、開店当初から青林堂さんの本を仕入れて店で売っていたました。そのご縁で、永島慎二さんや南伸坊さん、渡辺和博さん、赤瀬川原平さんなどの方々のご蔵書の整理を頼まれるようになりました。早稲田大学の漫画研究会の皆さんもよく買いに来られました。永島慎二さんに描いていただいた包装紙は昭和51年頃から使っていると思います。

主人はとてもやさしい人で、私がわがままを言っても嫌な顔をまったくしません。何でも、主人が一言「ダメ」と言えば妻はやりたいこともできないので、心から感謝しています。古本屋という商売は、厳密に計算してみれば決して儲かるものではありません。家族が飢え死にしないで食べていけさえすればいいと思っていますが、世の中の不景気な状況の中、体力的にも精神的にも一番大変な思いをしているのが主人です。これまで一生懸命頑張ってきてくれたので、少しはのんびりしてもらいたいと思いますが、この不況のせいでそれが先延ばしになってしまっています。

二人の息子の内、次男がこの4月から、サラリーマン生活に終止符を打って、神田の田村書店さんで修行を始めました。取り扱う古書の量も多く、早稲田の店売りとは様子が違うのでハラハラしていますが、頑張っているようです。

私は高校時代はテニスをしたり、短距離走で県大会に出場したりと、もともとスポーツが好きでした。ある時、息子にも心身を鍛えさせようと主人がスポーツセンターの弓道教室を探してきたので、私たちも一緒に参加してみたところとても面白く、その後、子供がやめてしまっても、私たちは通い続けました。私は現在は少しお休みしていますが、弓道の本質を体験させてくれるような良き師に巡り会うことができたらこんなに素晴らしいことはありません。いずれまた再開したいと思っています。

ここ1、2年のことですが、大学を卒業して地方へ行かれた方、何人かから「お店はまだやっていますか」とお電話をいただいたりしています。在学中に来店されていたお客様のようで、「こちらに出ていらっしゃる機会がおありでしたら、お立ち寄り下さい」と申し上げていますが、嬉しいことです。



近頃のお客さんたち
飯島書店 飯島芳子

サラリーマンと結婚した姉の姿を見て、私は商売する人と結婚しようと思っていました。主人は
15年間の修行ののち昭和45年8月に独立。古本屋には主人がいつも居ないものだというのは修行中から見て知っていましたので、独立したら私が店番をしなければならないということはわかっていました。

当時、長男は4歳、長女は生後8ヶ月。幸い店の奥が住まいでしたので、そばににベビーベッドを置いて店番に臨みました。長男が保育園に入るまでの半年間は、二人の子供の面倒を見ながらの店番で大変でしたが、生活のためには必至でした。

この頃は家庭にお風呂のない家も多く、夜、銭湯に行く人が本を買いに来るので、10時頃まで店を開けていました。今はどこの家にもお風呂があるので、夜出歩く人はいなくなってしまいました。このあたりも、八時を過ぎると誰も通らなくなってしまいます。

学生さんも、昔のほうがよく本を読んだと思います。今はコピーやインターネットが発達したので、店のお客さんも少なくなってきました。電車の中を見回しても、文庫本を読んでいる人さえ減ってきたのではないでしょうか。うちの店でも、コミック・雑誌なども一時期より動きが悪くなってきています。

店番をしていて困るのは、万引きする人がいることです。捕まえてみたら受験生で、試験がうまくいかなかったので、むしゃくしゃしてやったと言います。始めはそんなことは思いもしなかったのですが、以後、受験の時期は特に気をつけるようになりました。うちの店は監視カメラと鏡を設置してありますが、万引きしようとする人は、鏡のほうをチラチラ気にして眺めるようです。

ある時、息子が万引きを捕まえたところ、有名大学の一年生でした。「警察には言わないでくれ」と言っていましたが、私たちの隙を見て、いきなり積んである本の上へバタバタと上がると、隣のドアを壊して逃げて行きました。こうなるともう、盗られた本の金額の問題ではありません。こういう人間を野放しにしておけば、また別の店へ行って同じことをするに決まっています。この時はたまたま主人と息子、私の3人が店にいましたので、息子が追いかけて行って再び捕まえました。

壊したドアも弁償してもらわないとならないので、きちんと親に話すようにと諭して帰しましたが、夜になっても連絡がありません。学生証を預かっていたので家に電話してみると、「友達と喧嘩をして壊した」などとうそをついて親に話したようで、翌日親御さんと一緒に店に謝りに来ましたが、親もあまり悪いとは思ってないような様子でした。現代は、高級住宅街に住んで一流大学に通い、このような頭でっかちの人間になってしまうケースが多いのかもしれません。

いやなこともありますが、店のお客さんが本を手に取って、「あ、こんな所にあった」と、探していた本に出会えた喜びの表情をされることもあり、こんな時はホッとして、こちらまで嬉しくなってしまいます。

今は息子も一緒に店をやっていますので、私は帳簿の整理や目録・店番の手伝いをしています。息子は21歳から店に入り、早9年。まだ独身なのですが、良い人が来てくれたらと思います。現在の楽しみは、この早稲田の古本屋のおかみさんたちのグループで、毎朝散歩に行くことです。朝5時すぎに集合して、花のきれいな道など、この付近を散策します。散歩だけでなく旅行に行ったりもします。今年の5月に訪れた佐渡では、桜の小木と片栗の群生が一緒に咲いていたのが見事で、感銘を受けました。

店の仕事では、たまには文句を言い合いながらも、真面目で仕事熱心な主人と息子で一生懸命、それこそ夜8時にシャッターを閉めてからも本の整理をするなど、元気で頑張っています。



お客さんとのふれあいが「元気の素」
五十嵐書店 五十嵐純子
 
主人とは同じ山形の産です。家が150メートル位しか離れていませんでした。彼は南海堂書店(神保町)で修行をしている時、まだ高校生だった私に、きれいな字でよく手紙をくれたのです。私は本が好きでしたが、住んでいた所は静かな城下町で当時は本屋もなく、町の図書室で筑摩書房の『現代日本文学全集』などを借りては読みふけっていました。手紙には読んだ本の話などを書いていましたが、そのうち彼から上京してほしい旨、説得の言葉が届くようになり、都会への憧れもあった私は、その粘り強さに負けて結婚を決意しました。25歳の時のことです。

住まいは店とは別の場所にあり、主人も私に対しては子育てや家事をきちんとするようにという姿勢でした。そのため新婚時代は親戚の人たちが店を手伝ってくれていたので、私はそれほど大変な思いをせずにすみました。子供は男の子を2人出産したあと、念願の女の子を、それも双子を授かってとても喜びました。

私は編物が大好きで、セーターやベストなど、色違いのを作っては子供に着せて楽しんできました。子供手がかからなくなり店番をするようになって、帳場に座って編物をしていましたが、あまり夢中になって、お客さんがいらしてもやってしまうので、主人から「編み物禁止令」が発令されてしまいました。主人は亭主関白で、特に仕事の面では厳しい人です。

私が店番を始めた当初は今よりも大層売れました。専門店の多い中で、うちは百円、五百円という値をつけた安い本を並べていたこともあって、棚の本がガタガタになるほどでした。4月は、店の中に在庫を用意してあっても、それを棚差しする時間さえ取れないくらいの大忙しの状態です。主人は同業の方と一緒に毎日仕入れに走り回っていました。

神保町で3年ほど経った昭和43年のこと、早稲田に出店しました。この地に古書店が増えてきたのもその頃からであったと思います。
その後、支店を出し、一軒をまるごと切り盛りするようになって、単なるお手伝いではない、責任が伴うようになってきました。本のことは、わからないながらもよく見たり背伸びをしたりしながら学んでいます。お客さんとの交流が、自分の能力を引き上げてくれているようにも感じます。

2人の娘は小学生の時からバトントワリングでペアを組んで活動していましたが、中学生時代にチャンピオンとなり、大学時代にはオランダで開催されたワールドカップに出場して、見事、優勝しました。田舎にいたままであれば、このようなこともなかったかもしれません。思いきって東京に出てきてよかったと思いました。

子供には子供の人生があり、息子たちも企業に勤めるようになりましたが、主人としては子供に店を継いでほしいという希望がありました。私は古書店の仕事の大変さがわかるので、そういう思いをさせるのはかわいそうだと反対していたのですが、今年の始めから、次男が店を手伝ってくれることになりました。やはりサラリーマンといえども決して安心ではない時代になり、また、主人が元気でやっている内から指導してもらわなければ
1人前の店主にはなれないので、決心してくれたのでしょう。ホームページも開設し、これから一層頑張っていこうと思っているところです。
私は幼稚園時代からの幼なじみとして今でも良い友人関係が続いていますが、専業主婦の友から、「いつもお客さんのシャワーを浴びているから、そんなに若く刺としていられるのね」と言われました。自分では思ってもみませんでしたが、ずっと家にこもっているのと違って、こうして外で仕事をするというのは気持ちの切り代えにもなり、良い効果を生んでいるのでしょうか・・・。

3月からは、早稲田の古本屋の奥さんたちで行っている朝のお散歩のお仲間に加えさせていただき、運動不足の解消を目指して体を動かすようにしています。近頃、ようやく毎朝5時に自然と目覚めるようになりました。これからも皆、健康に気を付けて過ごして行きたいと思います。



温泉街から早稲田へやってきて
一心堂書店 水井 輝

長野県の更埴で生まれ育ちました。私の祖父は漢文の素質のある人で。「海中の金は、光らないといけない」と言って、私に「輝」と命名しました。母は輝子としたかったようですが、「孔子を始めとして、名に子とつくのは男の場合である」と言われて、この名前になりました。私は七人兄弟の長女で、
21歳の時、父の同僚から結婚の話が持ち込まれました。私は嫌だったので先方の顔を見ることもせず、「見ない結婚」で、結婚式の当日になって初めて相手の姿を見たような状況でした。

私は学校時代から本が好きで、学校の中でも図書館を探せばいるとみなに思われていたくらい、しょっちゅう本を読んでいました。従兄が戦地へ赴く際に置いていったヘルマン・ヘッセの全集を読みふけった記憶もあります。

主人は長男で果樹園を営んでいましたが、それを無償で弟に譲り、自分は独学で易の道に入りました。終戦後、上山田温泉(長野)で本屋(新刊・古書兼業)を開業したのでした。私は主人のことよりも本屋が好きだったので、仕事がとても楽しみで店に入りました。

昔は家並みを眺めて、建物やお蔵の様子から「この家には本がありそうだ」と判断されたら訪ねていくというやり方で古書を集めたものですが、主人は人間が固いので、本を整理してあげたお客さんから「あの本屋さんは誠実だ」という口コミで伝わり、また別のお客さんから連絡があるといったような具合でした。その他にも管dなの古書市場へ本を売りに行ったり、花柳界の人たちから手相を身に来てほしいと呼び出されたりするので、主人は不在がちです。

昭和24年頃のこと、笹屋ホテルに泊まっていた井上靖さんが店にお出でになり、ガラスケースに納まっている本を指差して「ここに私の本がある」と言いました。ケースに入れてあったので嬉しかったのでしょう。その時、店にあった古地図類など、「川中島戦記」関係の」史料を山ほどお買い求めになられました。

まだダンボールなどない時代で、木箱に詰めて送ってさしあげました。その後、この史料をもとに、「姨捨(おばすて)」という作品が書かれました。
主人は、どうしても東京へ行きたい、それも大学のそばへという思いを強く持つようになり、昭和29年10月、同業の方の紹介で早稲田へ出てくることになりました。私の父は農家の長男でしたが、通信教育を受けていて「早稲田講義録」を取っていましたので、慶応は知らなくとも早稲田の名前は知っていました。

それまでにいたところは温泉街で夜になっても明るかったので、東京へ来たら「なんて暗くてさみしい場所だろう」と感じました。それに、建物も古くて汚かったのです。ただし、本だけはたくさんあったのでいくらでも読めました。

私は人と本は好きなのですが、人間以外の生き物が苦手です。実家は農家で養蚕をやっていましたが、私はどうしても蚕に触ることができず、その時期になると夢でうなされてしまうほど嫌いでした。「嫁に行く時、絹の着物を拵えてあげないよ」とおどかされましたが、「いりません」と答えたものです。結婚して主人の実家に手伝いに行った時も、、まだ幼かった娘にやらせて自分は触らずにすませました。

店番をしていて困ったのは、猫が店の中に入ってきた時でした。帳場の裏に積んである本の上に座り込んでしまい、私はいつ飛びかかられるだろうと想像するとドキドキしてしまいました。しかたなく隣の人を呼びに行き、連れていってもらいました。

昭和50年頃から、早稲田の古本屋の奥さんたちで、旅行や早朝の散歩に行ったりしています。現在は平野さん、白欧堂さん、金峯堂さん、尚文堂さん、文省堂さん、文英堂さん、安藤さん、飯島さん、五十嵐さんに私の十名で、旅行は北海道から九州まで、その時によっていろいろですが、温泉やおいしい料理が楽しみです。皆店番をしているので、「こういう人が来たら万引きよ」などど、情報交換をしています。

うちの店の本は漢籍と美術関係書がほとんどで、早稲田大学の図書館にも、古文書などをずいぶん納めました。現在は店のことは、店で育ったともいえる我が家の一人娘が中心になってやっています。



同等の仕事ができる喜び
ウィズ25鶴本書店 東裕子

主人とは、横浜で同じ旅行会社に勤めていて知り合いました。主人は兄から店を引き継いで古本屋になりました。 
この業界のことは何も知らなかったので、抵抗なくどんなことでもがんばってしまえるようなところがあります。古書店はたくさんある中で、私共は後発ですし、他店で修行して独立、という手順で開店したわけではないので、早稲田のほかのお店とは少し形態が違うかもしれません。 

店は、嵐や雪など、悪天候のときは休みますが、それ以外の日は年中無休で開けています。平日はお勤めでこられないお客様、遠くからわざわざきてくださるお客様のためにも、特に日曜日はあけておきたいと思っています。「せっかく来たのに、店が閉まっている」といわれると申し訳ないので・・・・・・。 

従って余暇というものはまるでなく、毎日忙しくすごしております。子供たちは今年で高校三年生と中学三年生になりましたが、親が家にいるときも本の整理や値付けなどをしている姿を見ているせいか、どこかへ連れて行ってほしいとか、要求したこともありません。夕食もその日その日でバラバラ、手間をかけないもので済ませていますが、みな文句ひとついわないでいてくれます。 

私の仕事は主人とは全く同じで、店番はもちろんのこと、仕入れ、値付け、棚入れ、何でもやっています。タウンページに広告を出しているので、宅買いに行くことも。住まいのある練馬区のほか、北区、板橋区、豊島区、文京区、そして埼玉県の川口市や志木市など、広い範囲の場所から電話がかかってきて、車で出かけていきます。買った本は早稲田の倉庫に運び込んで整理、本を運ぶ力仕事が多いので、この仕事をはじめてから身体に筋肉がついたような気がします。 

とにかく、扱う本の量が多いので、磨いたり拭いたり、といった清掃作業は省略です。その代わり、その分の安くなっています。店内もごちゃごちゃですが、探せば何か面白いものが混じっているかもしれません。整理が行き届いていないだけに、かえって掘り出し物を探す楽しみがあるのではないでしょうか。

主人は、私にやりたいようにやらせてくれます。奥さんはでしゃばるな、という傾向の強いこの業界にあって、私の仕事を、認めてくれていると思うと、すごいことだと感謝しています。なんでも話し合い、いっしょに考えてやっています。お互いに、買ってきた本について「そんな売れそうもない本を買ってきて」などと言ったりもしますが、率直な意見を戦わせ、対等にできることが私のやりがいにつながっています。仕事というのは何でも、やっている内にわかってくるものです。この本はうちの店ではいくらくらいでなら売れるとか・・・。これは男でも女でも代わらないと思います。 

この仕事に就いてから、新刊書店にはよくいくようになりました。どんな本が人気があるのかと平積みされている本をチェックしたり、売れているものは注意してみるように心がけています。本に限らず、テレビのニュース番組でも、今、みんなはどんなことに関心を持っているのか、たとえば環境問題が、話題になっていればその方面の本を見ておくとか、ともかく何事も参考になるので、日々、気をつけています。 

子供時代から読書好きでしたが、残念ながら、じっくりと本を読むことはできなくなってしまいました。家にいるときも値付けやインターネットの準備などをしているので、とにかく時間がありません。そう考えると、店番をしているときが一番のんびりしているのかもしれません。 

この時代、不況だといって大変なのはどこも同じです。いろいろな工夫をして頑張れば、結果は必ず現れてきます。新興店もできて大変なのは確かですが、あちらが文庫やコミックなどをやるのなら、新しいところはお任せして、向こうにはできない古いところで特色を出していこうとか、手立てを考えていかねばなりません。当店では、とにかくなんでもやってみようという精神で、店売りのほか、BIG・BOXや早稲田大学などでの卸売展、インターネットの「日本の古本屋」への参加出品など、新時代の要求にこたえるべく、いろいろなことに挑戦しているところです。 

古書店の数は多いので、その中で、なんとか生き残っていく方法を模索しなければなりません。私たちは中堅の世代ですが、次の新しい世代の人々とともに、活気が出るよう努力していきたいと希っています。



楽しみながら人の役に立つ生き方を目指して
岸書店 岸愛子

保母として中野区役所に勤めていた24年前、月山の春スキーで怪我をして入院した病院で、夫となる彼と出会いました。
彼は古本屋で、オートバイで仕入れに行く途中、車にぶつけられて大怪我をしたのでした。二人とも山や歌が好きという共通項はありましたが、何よりもその、はったりのない、誠実なところに惹かれました。

まだ入院中でしたが、ある時一緒に店を訪れ、店内の帳場に座った彼が、「本の匂いがする。ここが一番落ち着く場所だ」とつぶやくのを聞いた時、こういう人と一緒の人生も良いかもしれないと思いました。

実家の父は船大工でしたが、八戸という土地に居ながら地方新聞ではなく全国紙を購読し、時に難しい会話をするような人でした。私が古本屋と結婚すると聞くと、棚に入っている本が新刊書店の本と同じように預かり物だと思って心配するので、「古本屋の本は、みな自分のものなのよ」と話すと安心して納得してくれました。

結婚して子供が生まれ、保母の仕事をやめました。田舎の暮らしでは仕事をしながら子育てをするのは当たり前でしたから、私も抵抗無く子供の面倒を見ながら店番をしました。

店と住まいは別でしたが、店の奥にも小さなキッチンがあるので、子供に食事を食べさせたりしながらの毎日。店の仕事は人との出会いがあるので、嫌いではありません。しかし、まさか「いらっしゃい、いらっしゃい」と声をかけるわけにもいかず、体を動かすことが好きな私にとって、じっと座っているのは少々辛いことでした。

店で取り扱っている本は歴史、考古学、仏教、民俗といった専門書が中心で、店番に慣れ始めたある時期、私が好きだった児童書を置いて一つのコーナーを設けようとしたことがありました。しかしうちの店本来の専門分野との調和という点では難しいことに気づき、残念ながら取り止めにしました。古書店では、店の棚の一貫性というものが大切であることが良く分かった出来事でした。

子供たちも成長したので、私も何か人の役に立てるようなことがしたいと思うようになり、NHK学園専攻科の通信教育を受け、この春に介護福祉士の資格を取得しました。実習やスクーリングなど、外出しなければならないこともあったのですが、主人や娘たちが応援してくれて実現に至り、とても感謝しています。

店番をしながらの中で時間的な余裕はあまりないのですが、現在はお年寄りの方々をデイ・サービスにお連れする送迎バスの添乗員の仕事をしています。朝八時半に出勤し、開店の11時までには戻ってくるというのが日課になっています。生活は質素ですが、食事にはなるべく手を抜かないよう心がけています。

インスタント食品はできるだけ使わないように、粗末ながらもきちんとした調理をするようにしています。いつだったか、長女が食事の用意をしてくれた時、特に教えたわけでもないのですがちゃんと煮干でだしをとった味噌汁を作ってくれたので、これはうまくいったと思ったものでした。長女は日本フィリピン協会というボランティア団体の事務所に勤めていますが、休みには店番も手伝ってくれるようになりました。

思えば子供の頃、明日食べるお米が無いという生活の中でも、私の母はいつも明るく生きていました。その姿を見て育ったせいか、私もお金や時間がなくても、ぼやいていないで何かできることを探すという姿勢が身に付きました。いつか目をつぶるその時に、「そこそこ良い人生だった」と思えるような生き方ができればと思っています。



赤ちゃんをあやしながらのお店番
金峯堂書店  日野原三幸

昭和三十年ころのことですが、私は横浜の吉浜町の病院に勤めていました。当時は古本屋というところへは一般の人たちはあまり行かず、私も本が好きでしたがもっぱら新刊書店で買っていました。

病院に書店の人が御用聞きにきていたので、何か買わないと申し訳ないという気持ちもあって、すぐに読めるわけではない本でも取り寄せて買っていました。たとえば『城塞』や『月と6ペンス』などは、新聞広告を見て題名が気に入ったもの。三島由紀夫の『女神』は、手で持った感じがよかったので・・・・。推理小説は面白くてよく読んでいましたが、今のようにたくさん出版されていなかったので、新刊の単行本が出るたびに買っていました。アガサ・クリスチィや「ペリー・メイスン」「シャーロック・ホームズ」シリーズなどが好きでした。三島の本も、出れば買っていたので、皆、初版で持っていました。

主人はお兄さんと一緒に古書店(早稲田の二朗書房)をやっていましたが、店が火事で焼けてしまったことで、一人でやらざるをえなくなりました。私と結婚したのはこのころです。独立するといっても、棚に並べる本がないので、三島由紀夫の初版本をはじめとして、私が持っていた本を全部出しました。棚うめくらいにはなるだろうという考えだったのですが、どれもすぐに売れてしまいました。後で、あの本を読んでおけばよかったと思いましたが後の祭りです。

主人は市場やセドリに行って毎日不在でしたから、結婚して一年くらいして長女を出産したときも、生後一ヶ月の子供を店の中であやしながらのお店番です。何があっても店の外へ出て行くわけに行かないので、子供が泣き出したときが一番大変でした。ある時、子供が寝ているからと思ってアパートに置いてきたところ、近所の人が「赤ちゃん、泣いてるわよ!」と教えにきてくれました。外にまで聞こえるようなものすごい声で泣いていたらしく、大急ぎで戻りました。このころは店の仕事にも子育てにもなれておらず、夢中でした。

女の子を二人生んだ後、男の子が生まれました。男の子は腕白でじっとしていないので、よく怪我をしました。ちょっとの隙に店の外へ行き、登った脚立から落っこちて頭から血を流しているのを、通りかかったお客さんが教えてくれたこともありました。びっくりして店を閉め、病院へ駆けつけましたが、頭を縫ったことは二回もあります。そんな息子も、今年の初めから勤めをやめて店の仕事をやってくれるようになりました。これからどうなることやらと思います。

昔は卒論を書くのに本をまとめ買いしたものです。講義などそっちのけで本を読んだものですが、今は職探しに必死で、買う人が減りました。うちの店に置いているのは法律や経済の専門書ですが、こういう本は新しい本もたくさん出るので、買う人も古本までは手が回らないのかもしれません。

どうにかこうにか今日まで生活でき、子供も大きくなってくれたのでよかったと思います。もっと本が売れてくれればいいのですが、贅沢はいえません。主人は真面目ですが、昔の人なので、家のことは何もできません。今の人は男性でも家事をするのでえらいと思います。これから何が起こるかわからないので、少しは家事を覚えていってもらいたいです。

私の楽しみはおいしいものを食べることです。近所の古本屋の奥さんたちで、旅行へも行きます。はじめてみた北海道の雪祭りや、輪島の温泉が印象に残っています。 
これからも、病気をしないことを心掛けて元気にやっていきたいと思っています。



『個性的な家族と猫に囲まれて』
古書現世 向井菊枝

新潟の長岡で生まれ、昭和39年より1年間、神田の八木書店(取次店)に勤務、主人とはそこで知り合いました。その後私は長岡へ戻って新刊書店に勤め、彼は早稲田の五十嵐書店で働いていましたが、ある年、彼から年賀状が届き、遠距離ながら交際が始まりました。どうも独立開業するにあたって、人手が欲しかったようで、五十嵐さんから「誰か良い人はいないのか」とせっつかれたらしいのです。

私自身も雪深い長岡にはウンザリしていましたので、喜んで上京することにしました。しかし、このことが後々、夫婦の会話の中で頻繁に話題にのぼることになるとは思ってもみませんでした。テレビで雪国の映像が映るたびに、主人は「こういう所からボランティアでおまえを救い出してやったんだ」と私に向かって言うのです。私は何か変だなあと思いながら、納得させられています。

昭和45年に結婚、51年に開業しました。次男が生まれたばかりでしたが、狭い店で寝かせる場所もありません。すぐ近くに住まいを借りていたので、子供が眠ってしまうとそのわきに、親子電話にしてある電話の受話器を外したままで置いてきて、店番をしながら電話で様子を窺い、泣き声が聞こえたら走っていっておむつを換え、店に連れてくるということをしていました。

若い頃の主人は、友人の友人とか、飲み屋で知り合った人などを、すぐ家に連れてきていました。当時住んでいたところは6畳2間しかなかったのですが、そこへ夜中に4人も5人も連れてきます。大学教授、新聞記者、色々な方がいらっしゃいました。

実は人ばかりか猫もそうで、一匹目の猫は飲み屋にいたのを「うちに行くか、と聞いたら行くと答えたから」と言って連れてきました。私も、長岡の実家にはヤギ、犬、猫、ガチョウなどがいましたから、動物は大好きです。家族もみな動物が好きで、馬の姿を見たくて府中や中山の競馬場まで足を運んだりします。そのせいか、我が家は猫が猫を呼ぶ状況で、自宅にオス三匹とメス二匹を飼っています。

現在、店は主人と長男との三人でやっています。店をしながら、小冊子的古書目録の発行も9年間続いていますが、リースで借りている印刷機で800部の目録を自家刷りして発行するものは大変な仕事です。

最初の頃は丁合機もなく、手作業でやっていましたので、紙の山はなかなか減らず、孤独な時間が流れて行きます。ロー・リスク・ミドル・リターンを実現するべく、夜は夕食を済ませた後に再び作業再開、丁合した目録をホチキスで綴じる人、それをまた折る人、封筒に入れる人と分担して、それぞれが黙々と手を動かします。今は丁合機があるので随分と楽になりましたが、その後の作業はまったく同じなので、家族三人で内職に精を出している光景は以前と変わらず、一種異様な雰囲気が漂っています。店の仕事でも目録づくりの作業でも、他の二人は何をするのにもペースがとても早いので、自分の行動がのろく感じられて落ち込むこともあります。

長男は中学時代には問題行動もあり、何度か学校から呼び出されたことがありました。ある時、図書室の百科事典の間にブドウを挟む悪事を働いたことがあり、「おうちが本屋さんなのに」と白い目で見られたのは今でも忘れられません。息子はその後、主人と一緒に通っていた柔道教室が忙しくなってそれどころではなくなりました。高校の3年間では柔道部で頑張り、都大会にも出場しました。凝り性の主人もいつの間にか柔道の魅力にハマってしまい、初段まで取りました。主人は現在は地元のサッカークラブのコーチもしています。

私の楽しみは、主人と二人で陶器買いに行くことです。沖縄の壺屋焼で気に入った作家がいて、鎌倉の工房まで訪ねて行きます。コーヒーカップなど、日常使うものがかりですが、感性がぴたりとくる作品に巡り合えた時は、とても嬉しいものです。



『楽しいお店番』
三楽書房 佐藤緑

深川、下町の生まれです。共立高女へ通っていたので、神田はよくしっています。学校がおわったあとは真面目に帰宅などせず、みんなで古本屋を覗きながら帰りました。仲でもよく通ったのが廣文堂で、もっとも参考書を買うわけではなくもっぱら立ち読みでした。

戦争で地方に4年ほど行っていましたが、やはり東京が良い、たとえ乞食をしてでも東京にいたいと思って戻ってきた途端、詐欺に遭ってしまいました。でも、そんな目にあっても、また次には良い人に巡り会うことができました。戦争を体験し、大変な思いをしているので、こわいもの知らずです。私たちの年代はみなそうでしょう。

私はもともとじっとしているのがきらいな性分で、結婚してからすぐに店番の手伝いを始めました。お店番をしていると、様々な人たちと仲良くなれるのでとても楽しいです。店の前を、知っている人が通ると、「どこへ行くのー」と声をかけておしゃべりが始まります。

お客さんもいろいろな方がお見えになります。あるお客さんはお医者さんでしたが、病気で入院中に、その病院から抜け出してタクシーで店の前まで乗り付けていらっしゃいました。「来たよ」というその姿を見ると、腕にインシュリンがぶら下がったままではありませんか。びっくりしてしまいました。

若い人も面白いのですが、よそ見をしながら本を棚に戻して、値段を記っした帯をビリビリ破ってしまったり、本を力まかせに開くようなお客さんには、「それはあなたの本じゃないでしょ」と言って注意するので、口やかましいと思われているかもしれません。

早稲田大学に夜学のあった昭和30年代は、お金のない学生さんがよく本を持ってきました。その本を預かって、代わりにお金を貸してあげるのです。しばらく経つと、ちゃんとお金を返しにきました。みんな良い子ばかりでした。今では本を買う学生さんが減りましたので、買っていく子は褒めてあげています。

いろいろなお客さんが入れ代わり立ち代り来店されるのでだんだんわからなくなり、しまいには「こんにちは」と挨拶されても「どなたでしたっけ」となってしまいます。

昭和41年から10年間ほどは、この同じ場所で新刊書店と麻雀店もやっていました。本屋は古本屋が
2軒というのもどうかと思って新刊にしたのですが、どうして新刊をやるのかと怒るお客さんもいたりしました。
2階の麻雀店には夜中の2時と4時にコーヒーを入れて持っていってあげます。朝は6時半に取次の東販が荷物を持ってくるので、当時は1日に3時間くらいしか寝ないでやっていたと思います。新刊では、子供の雑誌が出る時には配達はしなければならないし、会社帰りのお父さんが立ち寄って買っていかれるので夜は11時くらいまで店を開けていましたから大変でした。こんなことを60歳になるまで続けていましたが、古本屋だけにして楽になりました。

主人は、みんなからはちょっと恐い人だと思われているようですがそんなことはなく、とてもよく仕事をする人です。今は町内会長や神社の仕事もあって慌ただしく過ごしていますが、周りの人々と仲良くなれるのが良いと思います。私も元気でいるので店を開けないわけにはいきません。先輩の方をお手本にしてやってきましたが、おかげさまで皆さんに助けられて、楽しくやっています。



古本屋模様、今昔
尚文堂書店 森田文子
 
生まれは神保町です。姉が九段下の日配へ勤めていて、私も日配へ就職、女の子ばかりがいる計算課で仕事をしていました。その後、姉の店を手伝っていた主人と結婚、しばらくして独立しました。

私の仕事は店番でしたが、たった1人での店番は何をするのも大変です。昼食を採るのもトイレへ行くのも、とにかくお客さんが来ると席をはずすことができないのですから。現在は店で古書は扱っていないのですが、当時はやっていましたから、買取のお客さんも見えました。

高円寺で6年ほど経ってから、早稲田へ移ってきました。昔は人とのつながりも豊かで、楽しい時代でした。卒業式を終えた学生さんが背広姿でやってきて、「おばさん、卒業しました」と言って挨拶に来たりしたものでした。

運送屋さんもいまほど便利ではなく、店で買ってくれたお客さんのために、自転車で本を届けてあげたりもしました。自分の背丈ほどある本の山を荷台に積んで、横浜くらいまでは運んでいました。

今では何でもすっかり便利になり、物も豊富にあるせいか、学生さんが本を読まなくなりました。いつだったか、店で主人が万引き犯をつかまえて取っ組み合いになったことがありました。パトカーを呼ぶ騒ぎになり、犯人は眼鏡が壊れたなどと文句を言っていたようですが、あとで謝りに来ました。昔は本を買うお金がなきれども読みたくて我慢ができずに盗んだものですが、今の時代は、ゲームをするような感じで万引きをしているようです。

早稲田大学へ通うのにも、地下鉄が開通してからはこの道を通らなくても行けるようになってしまったので、4年間通っていても古本屋の存在を知らないで卒業してゆく人もいるのではないでしょうか。

私も若いころは本が好きでよく読みました。父が写真製版の仕事をしていて難しい本をよく読んでいましたし、また職人さんたちもたくさんいて本がどっさりありました。私は、外国文学は登場人物の名前がややこしいのであまり好みませんでしたが、吉屋信子や江戸川乱歩などを読んでいました。当時は娯楽といえばラジオか本くらいしかなかったのです。今の人たちも、読める時期にもっと本を読んでおけばいいのにと思います。

主人は家でも店でも変わりなく、真面目で頑固な頑張り屋です。やり方が気に入らないと、私に対して店の中ででも怒鳴ったりします。早稲田で青空市を始めた最初の人間で、第1回目は高田馬場の駅前にあった空き地で開きました。お手本が何もなく、本を縛る寸法や設置する台の準備まで、すべて手探りで考えながらやりました。その後BIG・BOX展が始まり、デパートでも即売展をするようになりました。

人生にはいろいろなことがあって大変ですが、過ぎてしまえば何ということもありません。息子は子供のころから古本屋を見て育っているので、店をやろうとは思わないようです。前は朝8時から夜10時まで営業し、休みも月に1、2回しか取らなかったので、大変さがわかるのかもしれません。今は別の仕事についています。



『「車で外回り」』は私の役目
西北書房 鈴木たま子

古川市の実家では、父がかんぴょうの問屋を手ひろくやっていて、結婚相手にサラリーマンはダメというのが父の方針でした。東京にいた姉がカメラの型屋で、その友人の紹介で主人と知り合いました。私の父は、戦時中の混乱期から「勤めはできないから」と言って農協からの招きも断ったほどの人なので、商売をしている人なら良いだろうということになって結婚が決まりました。ただ「商人」というだけで決まったので、本のことは何もわかりませんでした。

神田の篠村書店で修行した主人が昭和31年の夏、独立するのと同時に結婚。主人は仕入れで飛び回っていたので、私が店番です。本を売りに来られてもチンプンカンプンですが、店先に「買います」と書いてあるので、商人の娘としては「買えない」とは言えません。高く買うときもあれば、安く買ったこともあったと思います。

開店2年目に長女を出産、店と住まいが一緒なので、店の奥にいておもちゃでおとなしく遊んでいました。二人目の男の子が生まれた時、長女はもう小学校4年生だったので、よく手伝って弟の面倒もみてくれました。今の人たちはこんなこともしなくて良いので、恵まれていると思います。

主人は目が悪いので、私が代わりに運転免許を取り、外を回るのは私の役目になりました。お客さんは何も分からない私を信用して本を渡して下さり、後で主人が買い値を決めて電話するというやり方でした。その後、本を専門に扱っている質屋さんが私を連れて歩いて懇切に指導して下さり、仕事を覚えました。平日は店番、日曜になると客買いか、買って下さった本の配達で休む間もありません。

お陰さまで色々な方と知り合いになれました。長岡出身のあるお客さまは、早稲田大学を卒業後、長岡に戻られましたが、長岡から手紙が届き、「本を整理したいから来てほしい』というので行ってみたところ、段ボール150箱もあり、とても乗用車で運べるような量ではありませんでした。この方とは今でも親しいお付き合いをさせていただいています。

新聞社にお勤めだったある先生はお酒が好きで、「今度、この日に来て」とお呼びがかかると主人と
2人して出かけて行きます。午前中、先生と主人とでお酒を楽しみ、後で私が車で運ぶという具合です。
また、北海道にお住まいの本好きのお客さんは、何か月かに一度、東京へ来ては本屋を回られるのですが、早稲田にお出での時は必ずお立ち寄り下さいます。たくさんの本屋で本をお買いになるので、全部まとめてご自宅へ送って差し上げます。ある時、お客さまが家に戻られるよりも先に本の荷物のほうが届いてしまい、以降、見計らって送るようにしています。折にふれてすずらんの鉢植えなど、珍しいものを贈って下さり、「今度はなにを送りましょうか」などと嬉しいお心づかいをいただいています。

昔は店番をしていると、色っぽい本を持ってきて見せる方や、帳場の脇の椅子に座り込み、鏡でご自分の顔をじっと眺めている方など、不思議なお客さんもいらっしゃいましたが、一方で早稲田を卒業後、手紙や年賀状をずっと下さるようなお客さんもいらして、商売をしているからこそ、こういうお付き合いができるのだなあと喜ばしく思います。

現在は日曜がお休みなので、月に二度ほど、お弁当と飲み物持参でお友達と高尾山へ山歩きに行っています。尾根伝いにただ歩くだけなのですが、行って帰ってくると体重が2キロは減っていて、ダイエットに役立っています。

主人はすべて思い通りにならないと気が済まない「昔の男」で、頑固です。しかたないので、私は友人の集まりに参加しては発散しています。これからも健康で過ごしていければと思います。



日曜日には二人で散歩を
谷書房 長谷川澄江

高校を卒業してから、西片町(東京大学農学部のすぐそば)にある姉夫婦の店で住み込みで働くことになりました。室内装飾の店で、姉夫婦と私を含めて、六人ほどでやっていました。ここに3年ほどいたでしょうか、主人との出会いはちょうど私が22歳の時だったと思いますが、義兄の仕事の関係で見合いの話がありまして、紹介されたのでした。私は結婚するなら商売をしている人よりもサラリーマンがいいと思っていたのですが、そのうちに、日銭の入る商売も悪くないと思うようになりました。

初めて彼に会った時の印象は、「ちょっとこわい感じの人かしら」というものでした。私よりも8歳も年上でしたので……。でも実際はそのようなことはまるでなく、とても優しく、女の人以上になんでもよく気のつく人でした。

昭和42年、この地に開業、私も店番の手伝いをすることになりました。最初は何もわからず、たよりなく見えたのでしょう、しばらくの間は、主人が一緒に店番をしてくれました。とても仕事のペースの速い人で、のんびり屋の私などに教えているよりも自分でやってしまった方が速いとばかりに、パッパッと皆ひとりで片付けてしまいます。

私がひとりで店番をするのは、主人がBIG・BOXなどの即売展や仕入れに行っている間などですが、ある時、棚があいていたので適当に本をいれておいたところ、戻って来た主人が見て「なんだ、全然関係ない本が入っているぞ」と言って取り出してしまいました。当店は社会科学専門古書店なので、分類といっても難しく、すぐにはわかりません。そういうわけで、仕入れも値付けも、みな主人がやっております。

昭和43年頃は安保闘争の激しい時代でしたが、早稲田大学の学生さんたちがよくお店に見えて、毎日のように本を買っていかれました。その方々は今でもお客様として来店されたり、年賀状やお電話を下さったり、本当にありがたいことです。それにしても当時は仕入れが間に合わないほどよく本が売れまして、主人はほぼ毎日神田へ仕入れに行っていました。今思うと良い時代であったとつくづく思います。

長女が誕生したのもその頃でした。私は妊娠中からむくみが出たりして辛かったので、心配した母が鴨川の実家から出てきて面倒を見てくれました。店があって実家に帰るわけにはいかないので、大変助かりました。その後、2年半経って男の子を出産。子供ふたりの世話をしながら店番をすることはできないので、一時、長女は鴨川の実家で預かってもらったこともありました。

日曜日は営業していてどこへも出かけることができないので、お休みの時には、雨さえ降らなければ必ずと言って良いくら、家族全員で外出しました。私は方向音痴なので、主人はいつも一緒です。上野動物園、としまえん、後楽園、などいろいろなところへ行きましたが、主人の修行先であった神田の金子書店にもよく遊びに行きました。金子さんの住まいはお店の2階で、行くと夕飯やお風呂までいただいて、子供たちも大喜びで帰ってきたものです。金子さんご夫婦にはとてもよくしていただきました。今では、子供たちも大きくなり、それぞれに仕事に就いていますが、古書店の仕事には興味はないようです。

私自身は、花が好きで、ベランダに鉢を並べて楽しんでいます。朝、花の様子を見て、「今日は何が咲くかしら」と眺めているのが楽しみなのです。
一方、主人のほうは少しでもじっとしていることのできない人で、休日になると散策に出かけます。平日はあまり体を動かすこともないので、休みの時には一緒に歩くようにしています。巣鴨、池袋神田など、車は一切使わずに一〜二時間も歩き回ると、こんな所にこんなものがあったのかと、思わぬ発見もあります。主人は途中、古書店があると必ず入っていきます。これも楽しみのひとつなのでしょう。

それから、我が家はそろって巨人ファンで、時々東京ドームなどへ観戦に行ったりもします。
店番をしていて困るのは、酔っ払いが入ってくることです。女ひとりの店番ではどうすることもできず、じっと息をひそめて、少しでも早く出ていってくれるよう祈っているだけです。それから、店内を1時間以上くまなく万遍なくご覧になる方。こういう方は、決して本をお買いになることがなく、ただひたすら見るだけなのです。よくお出でになる「常連さん」で、私のほうも「ああ、また……」と思い、店から出ていかれるとホッとします。今の時代、どんなことをされるかわからないので、無闇に注意をすることもできません。主人にも、「危ないから声をかけないように」と言われています。でも、気を付けていないと本を万引きされてしまうこともあるので、しっかり見ていなければなりません。

いろいろなことはあるのですが、主人ともども、健康で末ながくこの仕事を続けることができれば何よりだと思っています。



「4月」は1年分の本を売る時期
稲光堂書店 三瓶峰

主人とは実家同士が同じ鴨川で、小さい頃から知っていました。ここの店は主人の父が開業しましたが、先代が亡くなり主人が継ぎました。
主人が仕入れや古書展で不在の時だけ私が店番をしますが、始めは慣れず、学生さんが入ってくると恐いと思いました。本のことも分からないので、探している本の書名を言われて「うちにはありません」と答えたら、棚を見たお客さんが「おばさん、ここにあったよ」と見つけてバツの悪い思いをしたこともあります。

以前は4月、5月というと桁外れに売れたものです。帳場にお客さんが列を作って並び、次から次へと本を包まなければならず、しまいには手が動かなくなるくらい人が来ました。先代が「4月という月は一年分の収入を得る時だ」と口癖のように言っていましたが、それこそ1日に30万、40万と売れたので、春には店の中にどんなにたくさん本が溢れかえっていても、7月になるときれいさっぱり売れてなくなりました。それだけに、4月は特に休む間がなく、どこかへ出かけるということもできませんでした。

当時は名前も知らない学生が、卒業式を終えると「おばさん、お蔭様で卒業しました」と報告に来たものですが、近頃は学生でも続けて来店するような人はほとんどいません。授業にはろくに出席もせず、なんとか単位さえ取れれば良いという姿勢の学生が増えたのではないでしょうか。

もっとも、大学のほうもきちんときょうじゅを育てようという方針ではなく,高氏を招いて済ませてしまうようなところがあり、出版される学術書も「共著」の形式が増えました。昔は本は5年10年と使えたものですが、今は1年か2年で寿命が終わってしまいます。

地下鉄やバスで通う学生も多くなり、店の前を通り人の量も減りました。平成7、8年頃から落ち込みがひどくなり、10年前に比べれば売上は半分以下になっていると思います。

早稲田へ出てきた当初、「こんな狭い家はいやだわ」と言ったら、主人に「文句を言うな!広い家なんかに住めるか。自分の家があるだけ良いんだ」と怒鳴られました。生まれ育った家は田舎の農家だったので、広かったのです。しかし、今になってみると、この不況の時代でも持ち家だからなんとかやっていけるので、これがもし借り物であれば、子供の家族と2世帯が食べて行くのはとても不可能でしょう。

私は家事が好きで、子育て中も、子供に着せる服は皆手作りで、既製品を買ったことはありませんでした。正月になると私が縫ったウールの着物を3人の子供たちに着せていました。

主人は父親の始めた店を守り、父亡き後は母の世話もし、とても親孝行な人です。また、主人がいる時は私に「たまにはゆっくりしておいで」と言って書道やちぎり絵などに通わせてくれたり、旅行に行かせてくれたりもします。

主人は世間の勤め人であれば、定年になるような年齢になってから、講習に通って車の免許を取りました。普通であれば運転をやめるような時期からよく頑張り、今では生きがいになっているようです。その姿を見て、私は「すごい」と感心しました。
68歳という歳になってもまだ同業の人たちと一緒に仕事ができるというのは良いことです。これからも体に気を付けて頑張ってほしいと思います。



ミーコはネズミ捕りの名手
白欧堂書店 佐田和子

昭和五十二年、この早稲田の地へ移転してきましたが、ここへくる前の店は隣がお菓子やだったので、よくネズミが出ました。それで猫を飼っていました。 
三匹目の猫は千駄ケ谷の犬猫病院でもらってきたメス猫で、ミーコと名づけました。住まいは集合住宅で動物を飼うことはできないので、ミーコはいつも店にいました。ネズミは本の革をかじって台無しにしてしまうので、古本屋には困った存在です。ミーコはネズミを退治するのがとても上手でした。 

ある時、ネズミがトイレに逃げ込んだのでミーコを入れて閉じ込めました。しばらく経ってから中を覗いてみると、ネズミは尻尾しか残っていませんでした。よく働いた猫でしたが、十八年間店にいて、最後も店の中でなくなりました。

お客さんにも大変かわいがられて、本を買わずにミーコの頭をなでにだけ来店なさる方もいらっしゃいました。



お客様、十人十色
平野書店 平野良

縁あって主人と一緒になり、結婚後すぐに萩窪の店を一軒任されました。駅前通から少し入ったところでしたが、近代文学の本ばかりという品揃えの店でした。近くにストリップ劇場などがあって、酔っ払いがくるような場所でしたが、店にアダルト本などは一切置かなかったので、そういうお客さんはすぐに出ていかれました。 

店番をしていて楽しいのは、自分の家族以外の人とたくさんお話ができることです。この店にきていなければ、近代文学の本をお読みになるようなかたがたと接するようなことはなかったでしょう。  

その後、早稲田で店番をするようになりましたが、近代文学の先生やゼミの学生が頻繁にお見えになり、いろいろな話をしたりしました。そのころの先生は、学生たちに「なるべく本屋へ行きなさい」と指導しておられたようです。 

もっとも、話をするといっても本の話はわからないので、もっぱら世間話です。本の話は、お客さんのほうがあれこれ教えてくれるのです。たとえばどの作家が人気があるのか、どうして人気があるのかから始まって、文の骨格がしっかりしているとか、文章を書く人にとっては勉強になる本だなどというようなことまで、丁寧に教えてくれます。

しかし、お客さんには良い人もいれば悪い人もいます。 
忘れられないのは、もう三十年程前のことになりますが、十数巻もあるプルーストの文庫本を全部持っていかれてしまったことです。夜9時に店を閉めようと思ったら、突き当たりの文庫のコーナーにおいてあったはずのセットがなくなっていました。そういえば大きなスポーツバックを持っているお客さんがいたと後で気が付きました。その頃は人を疑うことをしなかったのです。主人は「必要経費のうちだ」といって、強く怒るようなことはしません。それでかえって身にしみるのです。やはりこういうことがあってはいけない、と深く反省した次第です。 

近頃では学生さんも本を読まなくなり、お客さんも減ってきました。来店される方でも、店の本をご覧になって、買わずに「ちょっとコピーをとらせてください」などとおっしゃるので驚いてしまいます。先日もそんな方が二人もおいでになりました。こまごまと説明するのも変なので「それは筋が違うでしょう」とだけ言うと、「そうですか」といって出ていかれました。さまざまな人がいらっしゃるので、いちいち深刻に考えたりせず、言いたいことを言って気楽にやっていくようにしています。 

以前、店によくきていた学生さんは、後に結婚や出産の折々に招いてくださり、うれしい報告を聞かせてもらっています。卒業後しばらく経ってから、家族を伴って来店され、「この店にはお世話になっているんだよ」と奥さんにお話される姿を見ますと、本屋冥利に尽きるといった感があります。 

主人は真面目で頑固な人です。本をきれいにしてグラシン紙をかけるのは主人がやっています。昨年からホームページも始め、詩書や文学書を並べています。このほかBIG・BOX展などもあり、主人は息子と二人で頑張っています。



「日本海の荒波」のごとき本の中で
文英堂書店 吉原瑩子

長岡で生まれ育ちました。当時、長岡に古本屋などなかったのでこんな商売があることは知りませんでしたが、昭和三十年、神田の玉英堂書店で修行をしていた主人が独立する際に結婚、以来四十五年間、ほとんど毎日店番をしています。 

初めて本を持ち込まれたお客さんは図書館にお勤めで良い本をお持ちでしたが、今考えると私の付けた値段でよく置いていかれたと思います。その後、そのお客さんの自宅に本を買いにいったこともあります。値付けと仕分けを主人がした後、棚に本を入れるのは、私の役目ですが、お客さんが「この本はここじゃないですよ」と教えてくれたりします。 

開店当初は本が豊富ではなく、棚うめに筑摩書房の『日本文学全集」の空箱を賑やかしに入れておいたほどです。ところが、神田から買ってきたばかりの『広辞苑』を店先に一瞬置いていたら中身だけ持っていかれてしまったり、和辻哲郎の全集(七冊)や『自由への道』(六冊)まで全部持っていかれたのには困りました。昔は朝七時から夜十一時まで営業していましたが、主人は早稲田や、明治の学生と一緒にしょっちゅう帳場の奥で将棋に夢中になっていたせいかもしれません。 

昭和三十年代は、主人が仕入れてきた本を自転車に積んで神田に行き、玉英堂で買ってもらったそのお金で、また本を仕入れて帰ってきました。馬場から神田まで都電を利用することもありましたが、文字通りの「自転車操業」で自転車での往復も多い毎日でした。私は長岡にいた頃、高校までの一里を毎日歩き、後には舗装されていない石ころ道を自転車で往復していたので、神田までの距離を自転車で移動するくらいはたやすいことでした。 

神田で修行して早稲田へ出てきたのは主人が初めてです。自称「古本屋大学卒」の主人は、最初は理工学書を置いていましたが、早稲田へ移ってからからすぐに方向転換、文学書を中心にしました。というのは、理工学専攻の人は文学書も読みますが、文学科の人は理工学書を読まないからです。当店のお客さんは学生というよりも先生が多く、うちの店を始めとして早稲田の古書店街を探して、なければ神保町へ買いにいらっしゃっているようです。 

主人はとても真面目でお酒も煙草ものまない人でしたが、同業の人に誘われて少しずつ出かけて行くようになりました。リューマチを患い歩くのが大変になっていますが、それでも持てるだけの本をもってきます。最近はこんなご時勢なので本が安く、つい買ってしまうようですが、うちは倉庫がないので、住まいのほうに本が押し寄せて来ます。階段にはそのような本が二列、三列と積まれている状態です。店も本が溢れていて、私はいつも「日本海の荒波」と言っています。帳場にも本が山を成していますが、もし襲われそうになったらこれを崩して身を守ろうと思っています。



BIG・BOX展にも参加して
三幸書房 飯島克子

私が二十五歳の時、主人と結婚しました。買取りもするようになったのは、店番をはじめて五か月程経ってからのことです。安く値段を告げればお客さんは本を置いていってくれませんし、「わかりました。それでいいです」と言われると今度は「高すぎたかしら」と不安になりましたが、とにかく何でも買いました。

難しいのは、お客さんの年齢を見極めることです。未成年の方には売れない本もありますし、また本の買取りも禁止されています。学生服を着ていても一概に未成年と決めつけることはできないので、気を使います。

雑誌、文庫、コミックなど、分かる本は私が値付けします。始めは雑誌は置いていなかったのですが昭和四十年代の後半、本が売れなかった時期があり、それでコーナーを作りました。その後、コミックも置き始めました。自分が値段を付けた本が売れた時が一番嬉しいです。

大変だったのは子育てをしながらのお店番で、生後一ヶ月の長女にミルクをあげたりオムツを換えたりしながらの毎日でした。長女が四歳になった時、長男が生まれました。

思いで深いのは家族旅行です。長女が六歳の時、皆で初島を訪れましたが、初めて乗った新幹線の車内で記念に音を録音したことを懐かしく思い出します。子供たちもすっかり成長し、近頃では私たち夫婦に結婚二十五周年、三十周年の記念といって旅行をプレゼントしてくれるようになりました。

現在は店の営業だけでなくBIG・BOX展にも参加しているので、本の搬入や搬出の仕事もあり、本を扱うことにはすっかり慣れました。本を束ねて紐をかけ、運んだり、男顔負けの仕事をしています。BIG・BOX展で出なければならない時は、娘が店番の手伝いをしてくれます。

古本共和国 第15号('00)

2004年07月21日

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