










古本共和国 第6号('91)
『屋号のことども』 レストラン高田牧舎 藤田英子
私が高田牧舎のファミリーとなりましたのは昭和18年4月。前年4月には本土初空襲を受け、早稲田近辺は大騒ぎであったときかされ ました。結婚当時は、まだ米飯の販売もありましたが、程なく雑炊販売の統制、それも一時間ほどで完売。二度と経験したくない時代で した。
この一帯は五月廿五日の夜の大空襲で焦土と化し、翌朝瓦礫の店跡に姑と立ちました時はポーと熱気におおわれ一歩一歩の靴底も熱かっ たのを憶えております。夫婦して一代で築き上げた家屋備品の数々が一夜にしてすべて灰となりました。両親の思いはいかばかりであり ましたでしょうか。
かがみ込み赤く焼けたナイフを手に取り、かけたマーク入りの洋皿を眺めていた姿は忘れる事ができません。只当時の両親はまだ五十代 、焼跡にはすぐトタン屋根の掘立小屋を作り、手に入る材料の如何で、かき氷であったり、コロッケメンチ等々のおかずを商売しはじめ ました。
早稲田中学の屏もなく、本当に一望という有り様で、大学も終戦に授業も復活しはじめましたものの、一時は罹災者の寝泊まりもあった ようです。牧舎も小さな木造造り店舗を建て右につぎたし、左を改築と廿六年にやっと様相をととのえはじめました。ラグビー部のOB の方々も牧舎の焼跡に札を立て、罹災者、戦争帰還者の連絡所にしたとか。
今のビルになりましたのは、四年前の五月、でも古屋をおおった蔦の緑を一つ話になつかしがっていただく方もあります。屋号の高田牧 舎に関心をもつ方が多いのですが、舅の藤田源太郎は六歳の頃、文明開化の波をうけ麹町にありました放牧場から牛の背にのせられ早稲 田、いわゆる牛込にまいりました。当時の放牧場は今の戸塚第一小学校の辺り、戸塚、高田村から高田町と変わりつつありました。
現在の場所にミルクホールと白い大きな暖簾をかかげましたのが、レストランのはじまりです。高田町の牧舎ということで以来高田牧舎 とつづいております。大隈邸に毎朝ヨークシヤ産の輸入乳牛のしぼりたてをお届けしていたという話をよくきかされました。
早稲田大学の校友は卅万。地方出身の方が多いのが、特徴の一つではないでしょうか。大正年間卒業の希少価値の方から卒業ほやほやの 方。学生時代の懐旧談は花盛り。年若いOBはゼミ生、クラブの後輩と何やらシコシコお話、どうやら就職がらみの会社説明の一コマの 様です。地元で一杯やって花咲くのは学生時代の話。そして出身校が早稲田とわかったら亦々杯の進むこと。そして高田牧舎を肴にして 下さるとのこと。
“先生につれられて「かつライス」をご馳走になったよ、はじめてナイフとホークをつかったぜ。”
“カレーライス、ハヤシライスの思い出は深いよ。あのとろっとした甘みは大好きだった”
“先生が奥の方にいて入りにくかったよなあ”
“仕送りのあった時しか行けなかったよ”
“俺は二階でねばってたよ、あの硝子の一枚、柱の一本は俺達の分だぜ”
“おばさん達者だね、いくつになってもアイドルだよ”
うれしい楽しい一言一言。
先日、“銅羅”五十回記念パーテーというのがありました。きくともなく耳にはいりましたのは大学の先生方有志の同人誌で第一回は 卅四年発刊の主旨は“伝記研究発表”そして“続ける”をモットーとなさった由。遅々とした歩み乍ら雨だれの如に続いているものの 資金面のやりくりもついてまわっているとか。表紙は杉本健吉画伯の筆勢毎回同人の研究を鼓舞して下さっているとのことでした。
何事も“続く”ということは非常に大切なことでこの古書市は六回と定着しました。 大変喜ばしく存じます。私達が取りくみはじめました南門ストリートフェスティバルはやっと二回目。前年は反省点ばかりでしたが、 今年は少し気持ちにゆとりを持ち取り組んでおります。
私事ですが昨年早稲田南門通り商店会会長の重責を頂きました。あらゆる地域の活性化が叫ばれております今日、非力ながら一粒の麦 たるべく努力しております。
高田牧舎の窓から早稲田南門を住き交う青春群像を眺めては楽しみ、且羨ましく、そして少々悲哀を交えつつ自分とだぶらせて一日が 暮れております。
それぞれの人生が豊かでありますよう祈念しつゝ。